牧師室より

ミニマリズム、ミニマリストは、かつて社会主義をめぐる政治用語だった。今、比較的若い世代との会話中に、ミニマリストという言葉が出てきたら、その意味するところは、暮らしの中で、なるべく物を所有しないシンプルなライフスタイルを実行する人のことを指す。

私自身は、博物学的にものを収集する癖がある上、決断力不足で片付け下手なので、分類不能な猶予の物件が、身辺に集積されてしまう。それでも引っ越しするたびに、不用品を強制排除できていた。引っ越しの予定が無い今が、危険な時代と自覚はしている。消費を美徳とはせず、捨てる以前に、入手を抑制する現代のミニマリストたちを、少しは見習う必要を感じる。

先週の布田秀治牧師の講演で、常磐線全線開通に向け、帰還困難区域にある駅周辺でも、突貫工事で除染と街並みの再建が進められていると聞いた。五輪の聖火ランナーがそこを走る計画もあるらしい。でも、居住地域のほんの数パーセントを除染しても、その周辺には、依然として高放射線量のエリアが広がっている。帰還地域で再開された学校も、生徒数不足で維持困難な現実。誰も農業したくない、子育てしたくない場所に、人々の生活再建の未来は描けない。汚染物は、片付けが難しい「重荷」。捨てられないそれに埋め尽くされた被災地域の姿に、厄介な物を無意味に、ただあちらからこちらへ移動するばかりで一向に片付かない自分の部屋のあり様が重なる。

累々と黒いフレコンバッグが並ぶ風景から逃げるように、若者はミニマリストになるのかもしれないと、ふと思う。それでも原発を作ろうとする年配者は、未来を若い世代とは共有していない。放射能汚染物は、まだこれからも重荷であり続けるだろう。これ以上、原発をはじめ処分もリサイクルもできないものは、いらない。何かを建設・拡張することでよくなろうとするのではなく、修理や改良によってよくなる社会が必要なのではないか。スクラップ&ビルドという言葉の本質は、そこにあるような気がしてきた。

(中沢麻貴)