◇牧師室より◇
本日の礼拝は永眠者記念礼拝です。この礼拝は、カトリック教会の「死者の日」に由来していて、古くは2世紀頃の、“死者のための祈り”に遡るとのことです。この礼拝を通して、地上にある者たちが互いに悲しみを分かち合い、天にある者たちによって慰めを与えられる、そういう時になればと願っています。
精神科医の香山リカ氏(立教大学現代心理学部教授)がある講演で、「悲しむこと」について触れておられたので、その講演録から紹介したいと思います。香山氏は精神科医の小此木啓吾氏の著作『対象喪失』(中公新書)を引用して、「対象喪失 = 悲しむこと」、「悲しみというのは愛情とか愛着とか、依存しているその対象がぽっかりなくなってしまうこと」という定義を立てています。そして「対象を失うことの悲しみをどう悲しむかは、人間にとって永遠の課題である」と語り、「人間が対象を喪失したときに、立ち直る力をちゃんと持っている」とのフロイトの論を紹介しているのです。
香山氏は、悲しみの中にある人と、周囲の人間がどう接することができるのかということを、この小此木氏の論を整理する形で話を進めています。悲しみを乗り越える力は、誰の心にも備えられているものだから、その力を信じて“寄り添う”ことが大切なのだ、と。だから「悲しみを取ってあげましょう」ということは、「しなくていい」というのです。
香山氏は、同じ講演の中で、高木慶子氏(上智大学)の『喪失体験と悲嘆』(医学書院)を紹介しています。この本は、阪神・淡路大震災で子ども失った母親へのインタビューをまとめたものなのだそうです。その中に、「してほしくなかったこと・ベスト3」という項目があり、その1位が「わかったふりの同情の言葉をかけられたこと」なのだそうです。また「してほしかったこと・ベスト3」の1位は、「そっとしておいてほしかった」。「亡くなった者のために祈ってほしかった」というのです。
冒頭で、永眠者記念礼拝の由来は、“死者のための祈り”からはじまったと紹介しましたが、祈りに覚える、覚えられるということが、慰めなのだということに気づかされました。
神様は“慰めの主”です。私たちは祈りを通して、神様にすべてを委ねることができます。“悲しむ者の傍らに立つ”とは、そういうことを意味するのでしょう。その意味で、本日は祈りの礼拝でもあります。
※参考文献『迷える社会と迷えるわたし』(香山リカ、キリスト新聞社2018)
(中沢譲)