◇牧師室より◇
女性は、出産・育児で離職する可能性があるから医師には不適性という理由で、内々に入試で点数操作をし、女子の医学部合格率を下げている大学。出産・育児をしない同性カップルは生産性がないという理由で、社会的に認めるべきでないと主張する人物を、選挙で比例代表名簿の上位に位置づけ、当選を後押しした政党。大学と政党、組織は異なれど、この二つ、どこか似ている。役に立つ人間は優遇され、役に立たない人間は冷遇されるのが当たり前だという思想は、人間をそんなふうに区分して判断しようとすること自体が傲慢の極みだと思うのだが、それ以前に、その人間が有用かどうかを考える時の、何にとって有用かどうかを判断しているつもりなのか、そこのところに大きな問題が潜んでいる気がする。こうした主張をする人々は、「何にとって」有用か、の「何」は「社会」だと答える。そして、こういう人々は、「社会」と「我が国」を、同義の言葉として用いるということに、しばしば気づかされる。それは、「富国強兵」をスローガンにしていた時代の考え方と、あんまり違わないのだろう。平和が、遠ざかる。
「社会」と「国家」は同義ではない。どこであれ、人が生活していれば、そこに「社会」は自ずと生じるが、「国家」なんて、どこまでいっても暫定的なくくりに過ぎない。また、人間の有用無用を判定する資格があるとすれば、それは神様だけの権限だ。神様だって、その判断は世界の終わりにしか発動しないと、わたしは信仰的に考えている。
人間同士、お互いの違いを、今より理解し合って、その違いをうまく組み合わせて、柔軟な適応力のある社会を育成し、助け合って生きていきましょう、というのは国境を越えた理念として今の人類に必要なものだと思う。そういう“風”が、かすかに地球上で吹き始めた兆しを感じる。しかし、「我が国」(って自分に所有権がある国という勘違いをしている?)にとって自分のように役立つ人間が、もっと周囲から優遇されてしかるべき、それが人権だと考えるような人に、社会の舵取りを委託する地域社会に、明日はないと、平和の月のはじめに思う。(中沢麻貴)