◇牧師室より◇
「性的少数者」あるいはLGBTという言葉が、マスコミの中でかなり普通に使われる時代になってきた。私は、アメリカの歌手シンディ・ローパーを深く尊敬している。彼女はLGBTの人権のための様々な活動もしている。その内容を知るにつれ、多様性を互いに認め合う社会になることが、人々が生きる力を養いあうような方向に、社会を成熟させる上で、とても大切なことだと共感を持つようになった。
私自身は、このテーマにおいてはたぶん少数者ではなく多数者に属すると思う。でも、中高生時代を女子校で過ごしたことによって、同じ女性といっても、とても多様性がある、ということを身に染みて感じ取った。例えば、私は高校生時代、筋力測定の結果が、なぜか男子平均を超えていた。ゆえに、校内行事で重い物の運搬係とか、貧血を起こした同級生を保健室まで運ぶとか、そういう役目を引き受けることがよくあった。体育のダンスの授業でワルツを踊った時は、身長が高いほうだったので、女性ではなく男性のパートでステップを覚えた。ステップでリードするとはどういうことかを、そこで学んだ。女子校を卒業、共学に進学し、今まで自分が引き受けたり任されたりしていたことが、それは男がやること、と言われ遠ざけられることには、違和感があった。
最近、女性議員が秘書に対して暴言を浴びせ、暴力をふるったということが明るみに出た。当然、議員に対する厳しい批判の声が沸き起こった。彼女の言動には、全く正当化できないものがあるのは確かだ。けれども、私の心は批判や嫌悪一色にはなれない。女性らしさ、エリートらしさ、政治家らしさ、いろいろな「期待」から要求されることが、もしかしたらあのような「暴発」に至るところへ彼女を導いたかもしれないと、少しだけ思うからだ。
私の身近で大切な女友達たちの間には、「毒を吐く」という言葉がある。仕事や生活の中で味わった苦しさや理不尽を、弱音や怒りとして、ごくプライベートな集まりで、聞く耳を持つ仲間に聞いてもらうことを意味する。そして聞き手に感謝し、デトックス(解毒)されて元気を取り戻し、明日からまたやっていこう、となるのである。それは、多様性を認めない社会で生きる苦しさを乗り越える知恵として、生み出された方法だと思う。今の私は、女友達のみならずパートナーに対しても「毒を吐く」。それを聞いてもらえることには、感謝せねばならない!(中沢麻貴)