◇牧師室より◇
6月29日、イラク軍は「イスラム国」が国家樹立を宣言した場所であるヌーリ・モスクを制圧したと発表した。またイラクのアバディ首相は、「今日で『イスラム国』は終わった」と宣言したという。イラク国内の内戦が終わりつつあるようだ。
その報道から思い出した書が『イラクのキリスト教』(スハ・ラッサム著、キリスト新聞社2016)である。この本の帯に、「イラクのキリスト教徒に平和が訪れることを願って」とあり、彼の地のキリスト者の存在を知らされて購入した書である。そこでイラクのキリスト教について以下紹介したい。
イラクにキリスト教が入った時期は明確ではないが、パルティア人が支配していた時代、2世紀頃にはすでに広く浸透していたようである。
ちなみに「パルティア人」の名は、使徒言行録(2:9)にも登場する。
パルティア王国はペルシャに滅ぼされるが、その後に誕生したササン朝ペルシャも、パルティア王国の首都であったクテシフォン(現在のイラク)に首都を置いた。3世紀までにキリスト教は、ペルシャ国内のあらゆる階層に広がったという。キリスト教が広がった理由について、著者のスハ・ラッサム氏は、二つの理由を挙げている。一つはローマ帝国によるキリスト教迫害である。迫害によって逃れてきたキリスト者たちがペルシャ国内に定住したとする。さらにもう一つの大きな根拠として、ローマ帝国との度重なる戦争である(別の資料を調べてみて分かったことだが、パルティア王国も何度もローマ帝国と戦争を行っている)。戦争の捕虜として、多くのキリスト者が連れてこられたという。著者は、そのキリスト者たちが、商人や職人として活躍し、福音宣教の業に貢献したのでは、と分析している。パウロが、テント職人として働きながら宣教した姿を重ねての分析であろう。
4世紀に入り、ローマ帝国がキリスト教を国教にすると、ペルシャ王シャープフルUは、自国内のキリスト者の国への忠誠を疑い、教会を迫害した時期もあった。その後、キリスト教は自治を認められ、首都クテシフォンの主教は、ローマやアンティオキアから独立した地位を得て、「ペルシャ教会」(東方教会)として発展することになった。(中沢譲)