牧師室より

今月より、「旧約を読む会」と「入門講座」、それに家庭集会も少しずつ、再び定期開催されるようになりました。私は、集会の開会祈祷の中でも、ときどき触れるのですが、共に集ってみことばを味わう時が持てることは感謝です、という実感を持ちます。聖書を読むことを中心に据えた集会は、教会の働きの大切な柱の一つです。お話の準備は、時に難行苦行だったりもしますが、牧師二人のチームによって働かせていただいているおかげで、集会の半数は、語る準備なしに、聞く耳だけを持って楽しく参加できるという恩恵(?)にも浴しています。

 牧師になる以前、教会学校のリーダーとして毎週子どもたちに聖書のお話をしてきました。旧約の天地創造や、福音書の奇跡などを子どもたちと読む時、「ええっ、そんなのおかしいよォ」とか、「信じられない!」と、すかさず言われることもありました。そうした時、お話を受け入れてもらいたい一心で、説得しよう論破しようと、無理矢理な説明を展開するのは、やめようといつしか思うようになりました。それよりも、驚きや疑問を、まずは子どもたちと共有しつつ、しばらく聖書の言葉が描く情景の前にたたずむ時間の大切さに気が付いたからです。「このおはなし、不思議だね。どうしてこうなったのかなあと、私もわからなかった」と、正直に言ってから、遠慮がちに「たぶん、こういうことじゃないですか」と投げかけたりしました。その結果、「信じらんない、わかんない」と首をかしげながら帰って行く子が、なんだかニコニコしている不思議。後で、お母さんから、「今日の教会は、なんか楽しいことがあったみたいですよ。ウチの子、帰ってきてからも、聖書を開いてながめながら、ニヤニヤしてます」と、うかがった時の嬉しさ。

聖書には、わからないこと、信じられないことが、いっぱいつまっていて、それは楽しいことなのだということを、大人も忘れないようにしたいものです。    (中沢麻貴)