◇牧師室より◇

ペトロの手紙はペトロの名を借りた偽名文書である。ペトロは紀元64年、主イエスと同じ形では申し訳ないと、頭を下にした「逆さ十字架」で殉教したと伝えられている。エルサレムは紀元70年、ローマ軍に包囲され兵糧攻めに合い、悲惨に滅亡した。この頃から、キリスト教として認知され、それ以前はユダヤ教イエス派として宣教していた。ペトロもパウロもユダヤ教イエス派の枠内にあった。

紀元100年前後、新興宗教であったキリスト教は誤解と偏見、そして迫害に晒されていた。その頃、ペトロ書は、殉教したペトロの名で信仰を励ます目的で書かれている。

「義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。」「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。」ペトロ書の著者は、苦しむけれども、義を求め、善い業に励んで、信仰を全うしなさいと勧めている。

この勧めの言葉はヒロイズムや平板な道徳、倫理ではない。著者は「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです」と続けている。

クリスチャンが義のために受ける苦しみ、迫害は、主イエスの十字架に根拠がある。パウロはローマ書で「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」と書いている。ペトロ書もパウロも「正しい方・主イエスは、正しくない者・罪人を神に導くために苦しみ、十字架で死んでくださった。この愛を思う時、苦難と迫害に耐え、信仰を貫くことができる。そして、その信仰に、神からの確かな幸いと祝福がある」と語っている。

今日の私たちは信仰のために受ける迫害はない。この信仰の自由を得るために多くの人々の血を流す闘いがあった。しかし、主イエスの十字架に倣って、時代の苦悩を負うことにいつの時代も変わりはない。