◇牧師室より◇

 「新教出版社」の社長をされ、信濃町教会長老の森岡巌氏が「ただ進み進みて キリスト服従への道」を上梓している。種々の雑誌に寄稿された論文を集めたものである。改めて、読み直し深い感動を受けた。

日本の教会の歴史から、特出すべき出来事と人物を、深い洞察の中から描き出し、そこから学ぶべきことを提示している。帯の背中に「信徒の神学」と書かれているが、まさに神学的に捉えている。それは、カール・バルト、ボンへッファーから示された神の「恩寵」に応え、ひたすらな「服従」を目指す「キリスト告白」の書である。

 森岡氏は、1967年、時の教団議長・鈴木正久氏の名で出された「戦争責任告白」の実質化を訴え、「世のための教会」であろうと、真摯に十字架を負うことを力説している。

 現在の教団は、未受洗者の陪餐問題で大きく揺れている。そこには数の論理で進める政治主義が横行し、また、信徒獲得を安易に目論む伝道論が叫ばれている。神学を失った上滑りの議論に辟易し、教団悲観論に陥っている牧師、信徒は多い。

 森岡氏は、バルトの「教会の現実存在性」を鋭く表した言葉を紹介している。「教会は、彼(キリスト)と共に立ちまた倒れる。ところが、彼は倒れ給わない。それゆえに、教会が倒れるということはあり得ない。むしろ、教会は、立つということ以外にはなし得ない。あらゆる顚落の中を貫いて、教会は、くり返し立つことができ、また立つに違いない。そして、実際に立つであろう。」倒れ給わないキリストに向き合う時、このような確かな「教会を信ず」という信仰が与えられよう。

 また森岡氏は、牧師の責任について次のように書いている。「牧師は、御言葉への聴従の中から、教会を代表し、教会に代わって、政治的告白と証しとしての政治的神奉仕への道を選択し、決断し、それを教会とこの世に向かって指し示しながら、究極的には文字通り証し、すなわち殉教への途上を歩む者でなければならない。」この任に誰が耐えられるだろうか。しかし、聴くべき言葉である。