◇牧師室より◇
紀元前8世紀、イザヤが神から預言者として召命を受けた出来事とペトロが主イエスから弟子として召し出された出来事は、神との出会いの形と質が共通している。ここに信仰の出発点がある。
イザヤは、神殿で天使セラフィムが乱舞しながら「聖なる、聖なる万軍の主」と賛美する中で、煙に満たされ、神にまみえる。その時、イザヤは「災いだ。わたしは滅ぼされる。汚れた唇の民の中に住む者」と聖なる神を見て、自らの汚れと罪におののく。セラフィムの一人が祭壇の炭火を取ってイザヤの口に触れさせ、「あなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と宣言する。そして「誰を遣わすべきか」という神の声に「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と応答し、預言者になる。
ペトロは、前夜の不漁に疲れ切っていたが、次の漁のために網を洗っていた。そこへ主イエスから、押し寄せていた民衆に話をするため舟に乗せて岸から少し離れたところまで出して欲しいと頼まれた。主イエスは民衆への話を終えられると、ペトロに「沖へ漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。ガリラヤ湖の漁は夜で、この時間に魚は取れない。しかしペトロは「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と応じた。すると、網が破れるほどの大漁で、仲間の助けを得て魚を揚げると、舟が沈みそうになった。
この時ペトロは、主イエスにひれ伏し「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と告白している。ペトロは主イエスに聖なる神を見たのである。その時、自分の罪、汚れを知らされ、震えおののいた。主イエスは、ペトロの砕かれた信仰を見て「恐れることはない。今から後、あなたは人間を取る漁師になる」と弟子として立たせていく。これが、ペトロと主イエスの出会いである。
聖なる神に触れた時、人は自分の醜さ、罪を知らせられる。この苦しい認識が確かな神信仰を生み出す。神学は文字化、歴史化して理性的に納得させようと懸命である。その誠実な努力は必要なことである。しかし、イザヤやペトロが体験した、言語化できない神秘が信仰である。私たちも、イエスに対する関わりを「人間イエス」から「救い主イエス」に変えられて、信仰を得た。この体験を大切にしたい。