牧師室よ

 新年、おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

私は数種類の雑誌を読んでいます。世界や社会で起こっていることを分析、紹介してくれ、大いに教えられています。しかしそれは、力関係で動いている状況の分析と説明が多く本当の人間を捉えていないのではないかと感じることが多々あります。

このことに関し、五木寛之氏と立松和平氏の対談「親鸞と道元」を読んで、しみじみ考えさせられたことがあります。親鸞、道元は権威、権力に背を向けて、生身の苦悩する人間を追及しました。その真実があれだけ人を慰め、励まし、時を超えて影響を与え続けています。

先日の新聞の投書に、朝鮮半島の分断と緊張に関し、韓国、北朝鮮の人々の「哀しみ」を知り、共有すべきではないかと書いていました。同感です。争いの中で哀しむ人間の問題を直視することから全てが始まると思います。

神学においては、韓国で起こった「民衆神学」、南米から始まった「解放の神学」、また「フェミニズム神学」など、社会的に弱者とされた人々を中心に据えた神学が強く支持され、広がっています。

主イエスは常に苦しむ民衆に向き合い、彼らと共にありました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われ、また「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と非難されています。この弱者と共に生きる主イエスに、ファリサイ派の人々の偽善、サドカイ派の人々の権威・形式主義、そして領主ヘロデの高慢が見え、それらを批判したのです。

今年はどんな年になるのでしょうか。崩れてしまったかのような政治、止まることのない貧富の格差、考えられない犯罪、人と人とのささくれだった関係など、心の荒廃は加速するばかりです。希望の持てない状況にあります。私たちは大きな政治、経済、科学で動く社会と直接的な関わりを持つことは少ないでしょう。しかし、社会の動きの下で生きている人間の有様は、ただの人ですから、理解、共感できるのではないでしょうか。私の牧師としての働きは、本当に小さなもので、何の解決も示されず、ただ非力を嘆くだけですが、深いところで結び合う関係を持ちたいと切望しています。

主イエスに学び、人間を見据えて、隣人と共鳴し合う生き方が求められています。主イエスは全てを「良し」と恵みに包んでくださっていますから、この年も主イエスを証し、共に信仰に励みましょう。