牧師室よ

井上良雄先生を中心に数名の牧師たちで編集している季刊誌「時の徴」は井上先生の亡き後も継続して出されている。誠実な論文が寄せられ、私は愛読し、多くを学んでいる。

 123号に、神学校の同級生の最上光宏牧師が「教会法−K・バルトの教会論から今日の教団を顧みて−」と題して、下記のような要旨で寄稿している。バルトは、教会建設の歴史的意義を説き、そのために「秩序」が必要で、その秩序のために「法」が必要であると強調している。しかし、教会の「法制化」に対し、教会を襲う二つの危険があると警告している。一つは、「教会生活の法制化、官僚化、形式化、技術化は、無秩序の現象にほかならない」と語り、これは、教会の「世俗化」に繋がると警告している。もう一つは、教会の「宗教化」で、教会が自分の純粋さや、名声を守ることを求めて、世と和解しようとしない「自己絶対化、自己栄光化」の危険で、これは「偶像礼拝」に通じると指摘している。

 現在教団では、未受洗者が陪餐することの是非が熱い議論になっている。紅葉坂教会は、聖餐に関する学びを重ね、総会で未受洗への陪餐を認めると決議し、北村慈郎牧師はこれを実行している。その北村牧師に対し「教憲、教規」違反として、退任勧告を行い、教師委員会は「戒規」を適用し「免職」処分まで通告した。

 聖餐については、古くから神学的な論争があり、聖餐式の守り方についても多様な意見がある。現在も当然、世界の教会では未受洗者への陪餐に関しては賛否両論がある。十分な議論や対話をすることなく、北村牧師に「免職」という厳しい処分を通告したことに対し、最上牧師は、未受洗者への陪餐には反対の立場に立っているが、中世の教権主義の元での「異端尋問」や「魔女狩り」を想い起こすと驚愕し、また、バルトの言う悪しき「形式化、世俗化」、その逆の「宗教化、自己絶対化」に繋がるのではないかと強い危惧を表明している。最上牧師の主張はまっとうではないか。