◇牧師室より◇
H兄は山梨県の西沢渓谷で滑落し、52歳の短い生涯を終えた。彼は二冊の本を書いている。彼を偲んで読み返した。主イエスへの深い関わりが彼の生を支えていたことが分かるので、紹介したい。
1996年に著わした「森と水のノマド」の「私の福祉」に下記のように書いている。「今私達は『こころの貧しき人は、さいわいである』というイエスの言葉に再び立ち還る時である。そして希望の色褪せていく日々の中で、いやその『徒労に賭ける』日々の生命の関わりの中でのみ、希望への道は、人間を全体として捕らえる道は切り展かれているのである。人生の闇としての非生産的な老いという道を体験しなければ、人生の秘密は明かされて来ないだろう。『徒労に賭ける』生命と生命の間でこそ、神の前に個としての実存として立つ幸福を持つのである。他の生命の中に自分の生命を見る者は愛する者である。相手の生命の中に自分を生かす者は愛する者である。それは神の愛を知る者である。そして愛は永遠にやまない生命と生命の出会いである。なぜなら愛こそが成長するものであるゆえ。愛は創造である。創造とは他者の中に自己を見い出すことである。『われもはや生けるにあらず、キリストわれにおいて生けるなり』身体を引き裂かれながらイエスは言う。『死んでも私はあなた達と共にある。』と。」
2004年に著わした「「森の唄に誘われて」の「二一世紀のイエス」に下記のように書いている。「福音書には、イエスと病める人、貧しき人との交流が至る所に書かれている。確かにイエスの第一にしなければならなかったことは、そうした人たちの救済であったろう。だがそれは、イエスから一方的に働きかけていくことではなかったはずだ。そうした人たちの関係の中にしか、愛は生ずることはできないのだから。イエスが一人一人に触れ、一人一人が癒されていった時、イエス自身、対他的存在一人一人の中に愛を発見し、成長していったと思うのだ。」
彼の言葉を長々と転載させていただいた。弱くさせられた人々と出会い、誠実に関わっていく中に真実な愛がある。この愛を求めて生きることが彼の信仰であった。