牧師室より

5月から始まった裁判員裁判が何例か行われた。量刑が厳罰化に向かっているように思える。最初の裁判では、検察側が懲役16年を求刑したのに対し、懲役15年の判決であった。三番目の裁判は性犯罪であった。検察側は懲役15年を求刑していた。弁護側は立ち直る可能性があるとし、懲役5年が適当であると主張していた。判決は検察側の求刑通り懲役15年であった。

裁判員裁判は市民感覚を入れて、開かれた裁判所にしようと導入された。しかし、司法の素人で、犯罪とは無関係だった人が事件を映像化したモニターを見せられ、また被害者やその家族からの加害者への激しい怒りを聞かされると、感情にかられて厳罰化に向かうだろう。裁判員裁判で、深刻な殺人事件などを扱うようになった場合、死刑判決が多く出るのではないか。

最近の世論は加害者へのバッシングが激しくなっている。事件とは関係のないことまで調べて面白可笑しく報道している。女性タレントの覚せい剤事件の報道には辟易した。「正義の味方」に立って弱い者をいじめる風潮は健康、健全ではない。

私は「バンザイ訴訟」で15年ほど、裁判所に通った。何回行っても裁判所には慣れなかった。裁判官は高い所に座って容疑者とされた被告人を見下している。この構図は「遠山の金さん」、「大岡越前」が高い所から「白州」のござの上に座る人と向き合うシーンと同じである。容疑者とされた被告人は犯罪者としてまだ確定していない。裁判官と被告人の目線は対等であるべきだと思う。裁判員になった人々は上から見下ろす立場にあることを知っているだろうか。彼らの質問は高圧的に聞こえる。

話は飛ぶが、教会の講壇は後ろから見えにくいので少し高くしなければならないと思ったが、私はできる限り低くした。権威主義的な教会の講壇は高く、装飾的になる。

カトリック教会は司教協議会で、司祭や修道者らは裁判員候補者に選ばれた時には、辞退するようにとの公式見解をまとめた。それは、教理で死刑制度に否定的立場を取っていることを踏まえ、人を裁くことに関わるべきでないという考えである。また、司教・司祭は国家権力を行使するような公職に就くことを教会法で禁じているからだそうである。

確かに、犯行後も全く悔悛を示さない、同情できない人もいる。しかし、主イエスは加害者になった人を不必要にバッシングすることはないだろう。目に涙をためて側に寄り添うのではないか。