◇牧師室より◇
今年の平和聖日は川崎戸手教会の孫 裕久牧師をお招きした。説教は創世記11章、バベルの塔の物語から話された。人々は同じ言葉を使って、シンアルの平地に住み着いた。文明は発達し、れんがとアスファルトを作り出し、天まで届く塔のある町を建てようとした。これを見た神は、何をしても妨げることはできないと言葉を混乱させ、聞き分けられないようにした。言葉が通じなくなった人々は混乱(バレル)し、全地に散らされていった。
バベルの塔の物語は天にまで届く塔を建てようとした人間の罪に対し、神は言葉を混乱させ、四散させた裁きの物語として受け取られてきた。確かに、言語は共同体のルールを形成し、高度な文化を培ってきた。しかし反面、言葉が人と人の間に立ちふさがり、隔ててきた面がある。それ以上に、言葉が支配と被支配の関係を生み出してきた事実もある。バベルの塔の町では言葉は同じであったが、それゆえに、支配の道具になり、抑圧された奴隷もいたのではないか。四散した人々は解放として受け取ったかも知れない。その意味では、バベルの塔の物語は裁きではなく、解放であったと読むことができる。私たちは、一度言葉を捨て沈黙し、通じ合わない世界を体験し、そこから、抑圧や支配の言語とは違う「共にある」真実の言葉を見出していきたいと語られた。
午後の平和講演は「関係の回復」というテーマで話された。孫牧師は在日二世として生を受けた。子供の頃は通名を使って、在日であることを隠してきた。この時代に受けた心の傷は大きい。神学校に入学した時から本名を名乗った。しかし、在日の闘士のような人々からは「問題意識の低い在日」と見なされた。韓国に留学したが、当地では「純粋な韓国人でない」と見下された。どこにいても、自分の居場所がなく、差別されないように細心の心配りをし、在日として生まれた自分のアイデンティティを見出すことに苦しんできた。しかし今は、在日であることを喜び、誇りに思っている。申命記26章で、神はアブラハムを寄留の民と呼び、彼らを祝福すると言われる。韓国人をルーツとし、寄留の在日である自分自身と和解し、「関係の回復」を体験したからである。