牧師室より

クリスチャンを形容して「敬虔な」という言葉がよく使われる。広辞苑は「敬虔」を「神仏に帰依して、つつしみ仕えること」と説明している。

「港南区9条の会」は街頭署名運動をする時、ビラを配ろうと話し合い、テーマを「特集 ! 靖国と憲法」にした。世話人がそれぞれ短い文章を寄せ合ってビラを作った。その中で、ある方が「靖国神社は典型的な違憲団体」という文章を書いている。台湾や朝鮮で徴兵されて戦死した方々が合祀されている。遺族は合祀の取り消しを求めているが、靖国神社はその要求を受け入れない。これは「敬虔なキリスト者だったら深刻だ」と人権無視の違憲性を訴えている。私は「敬虔な」という言葉を削除してもらえないかとお願いした。私自身「敬虔なキリスト者」と言われたら気恥ずかしい。そして、取り下げ訴訟を起こしている台湾、韓国の遺族たちは一般的に想像されている、いわゆる「敬虔なクリスチャン」ではない。彼らは親、兄弟が日本兵として徴用されて殺され、死後も魂が奪われていることに激しい怒りを表している。常套的に使われている「敬虔」という言葉には世の中と関わりを持たない自己満足的な信仰を侮蔑したような響きがある。台湾、韓国の遺族たちは人権、平和を強く求めている。このことが神に対する「真の敬虔」ではないか。

私は「信教の自由が人権を保障し、平和を創る」と題して小文を寄せた。固い文章になってしまったが、転載したい。「信教の自由に関して、現憲法は20条で厳しく規定している。その3項は『国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない』とある。首相の靖国参拝はこの憲法に違反するとして、幾つかの裁判が行われた。裁判所は憲法判断を避けているが『合憲判断』は一例もない。大阪高裁ははっきりと『違憲判断』を出した。

自民党が出した新憲法草案の203項は『国及び公共団体は、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える宗教教育その他の宗教的活動であって、宗教的意義を有し、特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は圧迫若しくは干渉となるようなものを行ってはならない』と変更している。『社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えない』ならば、また『宗教的意義を有』さないならば、国も公共団体も参加してよいということである。

明らかに、首相の靖国参拝、公務員の地鎮祭参加への道を開く法案である。最近、政府閣僚が靖国神社の非宗教法人化や国家護持を語り、権力による宗教介入をあからさまにしている。

宗教と権力の結びつきが人権と平和を著しく侵害した苦い経験を私たちは持っている。靖国問題を中国との経済やA級戦犯の分祀問題に歪曲させてはならない。誰からも何からも侵されない尊厳を持つ者であることの保障は現憲法の『信教の自由』を堅持することである。人権保障が平和を維持、創造する。」