牧師室より

「キリスト新聞」が「野獣に落とされた原爆」という記事を掲載し、社説でも扱っている。

 19458月6日に広島に、9日に長崎に原爆が投下され、未曽有の悲劇が展開し、今なお後遺症による死者は続いている。

米国キリスト教教会協議会は、前身である連邦教会協議会の総監事であったサミュエル・マックレイ・カバート牧師のトルーマン大統領宛ての電信と、同大統領から送られてきた返信を公開した。カバート牧師は194589日、トルーマン大統領宛てに、原爆の使用をめぐって「無差別な破壊的行為であり、その使用は未来にとって極めて危険な先例を作ることになる」として、多くの米国のクリスチャンが「深刻に悩まされている」と電信した。これに対し、同大統領は同月11日、「野獣と取引しなければならない時は、それを野獣として扱わなくてはならない。とても遺憾なことだが、それにもかかわらずそれは真理だ」と返信してきた。トルーマン大統領にとって、日本人は野獣だったのである。

社説では、キリスト教原理主義とイスラム原理主義は同根ではないかと指摘している。911事件を起こした人々は「アッラーのために」と信じ、自分も家族も救われると貿易センタービルやペンタゴンを目指して突っ込んだ。自己中心的な信仰が彼らを、あの暴挙へと走らせた。米国が日本に原爆を投下した時、多くの米国人はトルーマン大統領と同じく、日本人を抹殺すべきと考えていたのではないか。

今の時期、米国キリスト教教会協議会がカバート牧師とトルーマン大統領の往復通信を公開したことに意味があると思う。自分たちに味方しない者を野獣として、抹殺しても良いとするキリスト教原理主義者たちに再考を促す契機になることを期待したのではないか。

衆議院選挙で表れたデジタル的な「あれか、これか」の単純化は思考を停止させ多様性を排除する。

山上の説教の中に「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない」とある。今日一般的に、主イエスご自身の言葉ではなく、マタイ教団が当時の教会の事情を反映した言葉を、主イエスの口に乗せたと理解されている。神聖なもの、真珠を持っていると豪語する者が相手を犬、豚と蔑み、人格を否定し、暴力に訴える戦争をも肯定する。異なる文化、宗教を理解し受け入れ、共に生きることが主イエスの福音である。