牧師室より

 戦後60年を経、明日敗戦記念日を迎える。世代は変わり、時代は大きく変化した。当時からは想像もできないほど、物質的豊かさと生活の利便性を獲得した。しかし、生きがいと希望という面から見れば、暗澹たる思いになる。社会の不安定さが、人心の荒廃を増幅している。

 「世界−8月号」で、自民党内閣の閣僚を7年間も務めた後藤田正晴氏は「歴史に正対しなければ未来はない」と題する評論家の加藤周一氏との対談で下記のように語っている。「一国の総理がいまになって、国会の答弁の中で孔子様の言葉だと言って、『罪を憎んで人を憎まずということを言っているじゃないですか』なんて言うようではどうしょうもないね。それは、被害者の立場の人が言うことなんです。加害者が言う言葉ではない。過去の歴史というものに正対することすらしない。そういう意見が国会の場で横行するようになっては、日本という国の道義性、倫理性、品格というか、それすら私は疑いますよ。なんでああいう言葉が出てくるのか。こんなことを言うと.『ああ、また年寄りが自虐のたわごとを言ってるわ』ぐらいに思うかもしらんが、しかし、そうじゃありませんか。本当に国の将来、未来を切り開こうと考えるのなら、歴史に正対をしていくくらいの覚悟がなくて、どうなりますか」

 あるグループの人々が日本の歴史教科書は自虐的だと言って、国の歴史をおとしめず誇りを持たせ、国への愛情を教えることが正しい教育であると新しい教科書を作った。おとしめや誇りや愛情などという感情的な言葉で歴史教育ができるはずがない。都合良く捻じ曲げるだけである。歴史と真正面から向き合う誠実さが生きがいと希望につながるのではないか。

 今年の5月に、日本、中国、韓国の歴史学者が3年かけて共同編集し「未来をひらく歴史 東アジア3国の近現代史」を出版した。執筆者たちの共通理念は「自国中心の歴史は21世紀には通用しない」である。

 戦後の貧しさからの脱出は許される営みであったと思う。しかし、自分と自国の利益と繁栄のみを求め、反対側を見なかったことが今日の荒廃を生んだのではないか。他者の痛みへの想像力が和解と平和をもたらし、道義性と倫理性を持つ人間として自律させると私は信じている。