◇牧師室から◇

 宮崎県の延岡で牧師をしていた時、地元に根を下ろした若い詩人の本多寿氏と出合った。数年前、詩界の登竜門のH氏賞を受賞し上京したが、東京はイヤだと言って、すぐに宮崎に帰ったという新聞記事を読んだことがあった。

 キリスト教の月刊誌「福音と世界」に柴崎聡氏が「詩の喜び 詩の悲しみ」を連載し、12月号は「死」を主題に書いている。その中に本多氏の「死の網」という詩が紹介され、懐かしかった。

 柴崎氏は「最終連は秀逸である」と絶賛している。下記の詩である。「その人は渇きを訴えず さりげなく枕元の水を飲む/その人は苦痛を訴えず さりげなく左手で身体を支えている/解っているのだ 私が嘘をついて様子を窺いに来たことを/判っているのだ 私がありもしない用事にかこつけて来たことを/その人が噛みしめている死の予感を私も噛みしめる/光を遮るために引かれたカーテン越しに見ると/空もまた その人を捕らえた死の網に捕らわれている/日が 日の下のすべてが死の網に捕らわれている/叫びたくなりそうな思いもだ/『いまわのきわのいま』もだ」。

 私は第二連が好きである。「『いまわのきわはつねにいまでありつづけよ』/そう叫びつづけた人が死の網にかかり/静かに微笑んでいる/もだえもせず あがきもせず/しかし諦めもせずタゴールの『ギータンジャリ』を語る」。タゴールはインドの詩人である。ギータは「歌」、アンジャリは「合掌」、ギータンジャリは「歌の捧げ物」を意味するという。

 二人の詩人が空をも巻きこんだ「死の網」に打たれながら、カーテン越しの光を得て、静かに一期一会の「いま」、詩論を交わしている。この場の悲しくも、しかし充実した時が見えるように伝わってくる。最期の時、共にいてくれて安らぐ友がいる。何と幸いなことか。