◇牧師室から◇

 キリスト教の月刊誌「福音と世界」は「連続企画:牧師という仕事」を連載し、第8回は「説教者としての牧師」を特集している。

 日本キリスト教協議会の議長・鈴木伶子氏が「信徒が望む説教者」を投稿している。原爆、南京、アウシュヴィッツなど、20世紀の「地獄」の絵を描いた丸木俊さんとの出会いから書き始め、次のように書いている。「私が説教者に望む第一点は、自分を地獄に行くべき者と感じ、自分のために、イエス・キリストがこの世に来られ、地獄の底にいる私たちと共におられるという『すごい話』を割り引き無しに受け止め、伝えることです。その時、信徒もまた自分の罪を自覚し、十字架の救いによる神の愛の前に額ずき、祈るのです。(中略)現在の世界を覆う、力が全てという風潮の中で、人びとは、もっと高く、もっと強く、もっと豊かにと、必死で競争し、疲れ果てています。そのような現実に対し、説教の中で、最も高い所にいます全能の神が、苦しむ人と『共に生きる』ために、ご自分の力や地位を捨て、最も苦しく最も絶望的な状態に降りてこられたことが力強く語られ、教会のあり方、信徒の生き方の方向付けとして示されることを望みます。」

 社会的な弱者・少数者は教会でも同じように扱われてきた事実がある。貧しく、病を負い、差別された人びとを招き、彼らと共にあったイエス・キリストが語られ、教会がそのような「共に生きる」場の原点になることを望むと言われる。 

 そして、友人たちに「説教に望むこと」を聞いたところ、下記のような応答があったとあげている。 @ 原語とか釈義の知識をひけらかさない。 A 説教壇から問答無用の一方的な見解を押し付けない。 B 主の祈りや讃美歌も気を抜かない。 C 教会員は社会のプロなのだから、具体的な生き方について「お説教」はしない。 D 説教者は自分の語った言葉を生きてほしい。 E 説教は短いほど良い。 私にとっては D が最もきつい。説教学の大家・加藤常昭牧師も「私がひたすら求め続けているのは、説教者の存在と言葉がひとつになることです。説教をしていること、そこで説教者が生きていることが見えてくる説教です。」と語っておられる。これに応えられる牧師は一人もいない。ただ、憐れみにすがって立たせられたいと願うだけである。

 鈴木氏は牧師への要望だけでなく、信徒の責任にも触れ、最後に下記のように書いている。「説教は語る牧師と聴く信徒の共同作業だと思います。牧師を牧師たらしめるのに信徒の祈りによる支えが重要であり、説教への期待は、ブーメランのように、信徒の責任として返ってくることを覚えて、この稿を終わります。」

 説教は牧師の個性が出るが、教会全体で生み出していく。それが、その教会の宣教となる。