◇牧師室より◇

 寺西和史氏という裁判官がおられる。市民集会に参加し、仙台高裁から戒告処分を受け、裁判官の社会参加の問題が取り沙汰された。ドイツの裁判官は大きな自由が保障されているが、日本の裁判官は個人的な発言や行動が著しく制限されている。

 「開かれた司法」を目指す裁判制度の改革の一環として、裁判官と共に市民が市民を裁く「裁判員制度」の導入が議論されている。

 週刊金曜日は「裁判員制度−あなたが『裁く』人になる」という特集を組み、「人を裁くということはどういうことか」について寺西氏に意見を求めている。寺西氏の返答は私たちの認識を転換させ、なるほどと興味深かった。

 刑事訴訟で「裁かれる人」は当然のように、市民・被告人であると考える。しかし、これは官僚的な発想ではないかと疑問を呈する。被告人を裁くという表現は、被告人を最初から罪人扱いにする語感がある。有罪判決が出るまでは、被告人も「無罪の推定」の下で罪を犯していない者として扱うべきである。被告人と訴追当事者である検察官は対等の立場にある。検察官を「裁かれる人」とは言わないのに、対等の立場にある被告人を「裁かれる人」と決めつけるのは正しくない。

 刑事訴訟においては、被告人を裁くのではなく、訴追する検察官の言い分と、被告人(および弁護人)の言い分のどちらに合理性があるかを裁断することである。被告人の有罪を立証するのが検察官の責任であり、その立証が正しいかどうかを判断することが「裁き」の対象となる。

 被告人が「裁かれる人」という常識的な感覚とは違い、「合理的な疑いを生ぜしめない程度に確実に有罪を立証できているか」という観点から、検察官こそが「裁かれる人」なのである。

 近く導入されるかも知れない裁判員としては、検察官の提出する証拠に徹底的な疑いの目を持ち「検察官を裁く」姿勢で臨むべきである。そのことによって、官僚裁判官がしばしば出してきた冤罪を防ぐことができる。

 寺西氏の論述は、私たちの認識を180度転換させる。そして、氏の主張が確かな人権確立につながると思った。