◇牧師室より◇
人類史は文字を使い始めて五千年になる。この間、多くの英知を築き上げてきたであろう。ところが今、その人類が直面していることはテレビの映像で見るように火炎に燃える爆撃である。これは架空の出来事ではなく、爆撃の下には生身の人間がいて、まさに「衝撃と恐怖」、そして死に晒されている。
人間は元来保守的でその保守性が生存を支えてきたと言える。しかし、保守性が自分の生存だけに働く時、他者の生存を否定するようになる。歴史は、帝国主義という狂気の隣人否定に走る悲劇を刻んできた。その中で人類が築いてきた英知は異質を受け入れ合う「共生」ではなかったか。主イエスの福音は神の下で「共に生きよ」に尽きる。それが破れている悲惨な現実が目の前に繰り広げられている。しかも、巨人が赤子を押しつぶすような圧倒的な力の差である。対抗できない暴力で自分の価値を押しつけることを恥ずかしくないのかと聞いてみたい。やり切れない無力感と虚無感にとらわれる。
辺見庸氏は、戦火から遠い私たちの内面も爆撃されており、この爆撃が正当化されるなら世界規模の精神の敗北につながると書いている。爆弾はイラク国民と私たちの上に降り注いでいる。力には勝てないと承服したら、強い者に媚びて愛や正義を求める自立した心を失う。攻撃する側ではなく、される側の恐怖と苦難を想像し、彼らと結び合おうとすることが主イエスの視点ではないか。