◇牧師室より◇

 プリーモ・レーヴィの「溺れるものと救われるもの」と徐京植氏の「プリーモ・レーヴィへの旅」を読んだ。レーヴィはイタリヤのトリーノで生まれ育ったユダヤ人化学者であった。ファシズムに抗してパルチザンに身を投じたが、捕らえられアウシュヴィッツに送られた。言葉を絶する辛苦を舐めつくし、ソ連軍によって辛うじて解放された。以後、イタリヤに戻り、化学者として働きながら「アウシュヴィッツは終わらない」など、自らの体験を証言し、人間の普遍的価値を求めて著作活動を続けた。ところが解放後、40年目に自死した。

 レーヴィを人間の尺度としていた徐氏はレーヴィの墓を訪ね、自死の理由を追い求める。レーヴィは「最悪のものたちが、つまり最も適合したものたちが生き残った。最良のものたちはみな死んでしまった」と生き残ったことの罪責に苦しんでいる。しかし、ナチ親衛隊に取り入り、わずかの特権を得て生き残った同胞のユダヤ人に対し「私は良心の呵責など感ぜずに、最大限に強制され、最小限、罪に加担したものたちをすべて許すだろう」と述べている。生き残った罪責が自死をもたらしたとは思えない。

 レーヴィの著作での問いかけに、600万のユダヤ人を抹殺したドイツ人からは「あの時代は、あヽする他なかった。上官の命令に従っただけで私には罪はない」と、いつもの答えが返ってくる。そして、「アウシュヴィッツはなかった」という歴史修正主義まで生まれてきた。更に第二次大戦後も、ベトナム戦争、イラン=イラク戦争、カンボジア、アフガニスタンの内戦と、痛ましい殺戮を限りなく繰り返している。

 レーヴィを執拗に追いかけた徐氏でさえ自死の理由は分からないと言う。私に分かるはずがない。確かに鬱的になっていたらしい。普通の人間が繰り返して虐待と虐殺に暴走することに絶望したのであろうか。アウシュヴィッツの悲劇から学ばないことに抗議の自死をとげたのであろうか。

 アウシュヴィッツから生還し古典的名著「夜と霧」を書いたV・E・フランクルは晩年、「それでも人生にイエス(是)と言う」と語っている。