2011年8月のみことば


わたしだ。恐れることはない

  それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。
            (マルコによる福音書6章45節〜52節)

 1990年の春、私はシナイ、イスラエル、ガリラヤに旅をした。砂漠と岩山のシナイを通ってガリラヤに入った時、そこは別天地のように感じられた。岸辺には花が咲き、湖はただおだやかであった。ここに掲げた「みことば」のような「突風」など想像することもできなかった。この湖上の出来事を、与えられた「みことば」に添ってたどってみたいと思う。

 まず思ったことは、このマルコ福音書は、ほんとうに率直な語りかたをする書である。これをそのままうけとめることも出来るが、探り求めることによってマルコが何を語ろうとしているかを知ることが出来るのではないかと思った。

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 主は、神の国の宣教を開始しようとし、郷里ナザレに近い、ガリラヤにおいてそれを始められた。
 若々しい宣教は人々に大きな反響と感銘を与えた。この日も5000人以上もの人が集まり、主イエスの宣教とパンの奉仕を受け、喜びに溢れていた。人々は夕方になっても去ろうとしなかった。ところが、主イエスは、何を思われたか、弟子たちを「強いて」舟に乗せ、山に入って祈るよう命じられた。それのみでなく、群衆も解散させ、ご自分も祈るために山に入られた。

 この「強いて」が問題である。これだけの多くの人が集まるということは、一つの祝福ではないだろうか。なにゆえ解散させられたのであろうか?
 岸辺に集まった群衆は、主イエスより様々のよいものを与えられ、満足していたに違いない。
 しかし、これは「強いて」主イエスの決断によって行われたことである、とマルコは述べている。
 人々の中に、イエスを尊敬するあまり、主イエスを偏ったメシヤのように思い、その考えをひろげようとするものが生じた。主はそのことを危惧されていたので、弟子たちに、このことについてよく祈るようお命じになったのではないかと思う。

 次に注目させられるのは、主イエスが湖の上を歩いて舟のそばに来られた時、舟に乗り込まず、そばを「通り過ぎようとされた」とあることである。
 沈むかも知れない舟の中で、弟子たちが、恐怖の叫びをあげているのに、それを横目で見て通り過ぎようとされたのは、冷淡すぎるのではないかという批評をさけることは出来ない。だが一方、イエスが、舟の中で眠っておられる記述も多い(マタイによる福音書8:24、マルコ4:38など)。又、マタイの主イエスは、湖上で波の上を歩いて近寄り、沈みかけたペテロに手をさしのべて助けている。主イエスは、弟子たちを置いて先に進むような方ではないと語っているかのようである。

 しかし、マルコの主イエスは、いかにも若々しい。神の国を宣べ伝えるのは私の務めである。これくらいの雨風、突風を恐れてはいられない。私は先にゆく、あなたたちも後から従って来て下さい、と仰っているようである。「傍らを通り過ぎる主」ではなく、「先へ進まれる主」、「先立ちたもう主」のように思える。
 弟子たちの乗っている舟は、もともと「祈るため」の舟であった。あなたがたは、その舟に乗っている。そのことを思い起こして下さい。そこで神の国の宣教のために祈って下さい。私のようにまっすぐに祈りつつ前進して下さい。このようなご自分の姿勢をお示しになったのである。
 舟は、そのように、悩み多い群衆のために祈るもの、神の国を宣べ伝えようとする主イエスのために祈るものであった。その舟を整え直し、前にすすんで下さい、と主は言われるのである。

 最後に、もう一つ心にとめたいことがある。それは、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という主イエスご自身のおことばである。波の上を歩いて来た主イエスの姿を見て、弟子たちは、湖の中に住む幽霊のような存在と思った。「幻影」といってもよい、ありもしないものが出現したとおびえたのである。湖の上を歩くことなど人間には不可能であった。しかし主イエスはそれをやってのけ、弟子たちは、恐怖感をおぼえたのである。主イエスは、そのあり得ないことが存在することをお示しになった。

 私はあなたがたの主であり、あなたがたを包む世界の創造者であり、あなたがたを贖(あがな)い、あなたがたを甦(よみがえ)らせる主である。決して恐れることはない、との思いで語られたのであろう。
 主イエスが、舟に乗り込まれると、風は静まったという。「わたしだ。恐れることはない」は、私たちの信仰の告白ともいえる。
 「我なり。恐るな」(文語訳聖書)のみことばは、つねに私たちの信仰を支えるみことばであった。現在の教会を見る時、世界を見る時、このみことばなしには生きることは困難であろう。傍らに立ちたもう主イエス・キリストに祈りつつ、望みを失わずに、信仰者としての務めを全うしたいと思う。主共にいましたもうよう切に祈りたい。
岡本不二夫教師 (隠退教師)
(おかもと ふじお)




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