2009年6月のみことば |
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。 (創世記1章1節〜5節) |
[1] 先日、テレビから聞こえてきた言葉に、はっとさせられました。 それは、ある国立大学で開かれていた公開討論での、熟年の自然科学者の言葉です。 「自然は歴然としてある。しかし自然科学はそれを全部は解明しきれているわけではない。私たち自然科学者は、自然のほんの一部を垣間見て、分析しているに過ぎない」 日本を代表する大学のひとつといってよい国立大学の熟練した科学者、この道のスペシャリストといえる科学者が、この道を極めれば極めるほど、自分のしている事、あるいは人類ができることは本当に限られているのだ、ということにたどりつく。自然の営みを前にして、自分の限界、人間の限界ということにたどりつく。…そう、語っていました。それは、自然の営みに対して「畏れ」を知っている人の言葉でありました。 この「畏れ」は、この道に生き切った人だからこそ、たどりついた「畏れ」といってもよいかと思います。 [2] 聖書は、この歴然とある「自然」、「この世界」は神がお造りになった、と言う言葉から始まります。 「初めに、神は天地を創造された」 この宣言は、聖書全体を貫くメッセージです。 この世界は、神がお造りになった。人間も、この神によって造られた…だから、人間が神なのではない。 実は、この一文にはそういう意味が込められています。 それは、この先を読んでいくとよくわかります。 神は6日間かけて、この世界をお造りになった、と聖書は語ります。つまり、この世界は、神が秩序を与え、全てのものに命を与えてくださった、という事を言い表しています。1〜6日の出来事に記されていることをそれぞれに丁寧にみていくと、混沌とした世界が段階を経て神によって整えられていくことがよくわかります。 この際、大事なことは、ここで語られていることはどういう意味があるのかということを聞き取ることです。科学的な解明と聖書の記事とどちらが正しいのか、というような視点ではなく、語られていることの意味を受け取る時、そこには神のこの世界と全ての被造物手に対しての深い思いが語れていることに気づかされます。 神の深い思いがよく現れているのが全ての創造の業が終わった時の一節です。 それは、31節の「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」 という言葉です。 神が混沌としていた世に秩序を与え、闇に光を与え、全ての被造物に命を与えてくださったその営みの最後に、この世界を見渡した時「見よ、それは極めてよかった」…これが神のお造りになった本来の世界です。 「極めて良かった」ということは、お造りになったすべてのものは何ひとつ無駄なものはない、という意味でもあります。人間も神がお造りになったのだからそのことの故に存在そのものが肯定されているのです。誰ひとり、いなくてもよい等という人はいない、ということです。これが、聖書の世界観であり、人間理解なのです。ここから、出発しています。 [3] ところが、聖書は、そのように造られた人間であるにもかかわらず人間には根源的な問題がある、ということを語ります。それが創世記3章以下に語られている人間の姿です。神に命与えられ、極めて良かった、とおっしゃって頂いた人間であるにもかかわらず、人間は、神の秩序に自ら背を向けて神を裏切る…そういう性質を根底に持っている。それを聖書は直視します。それは、神が肯定して下さった人間なのに、背くのは人間の側だ、という認識です。3章で語られているアダムとエバが陥った神との約束を守れなかった出来事は、そういう人間の根源的な問題を言い表しています。 これをキリスト教では、「罪」といいます。 「罪」と言う言葉は、「的はずれ」という意味です。心の「的」がはずれてしまっている。…それは、例えば、人間は神に造られた存在であるにもかかわらず、それを忘れてしまって、あたかも自分が神(=世界の主)かのようにふるまってしまうこと。そういう、ずれを「罪」というのです。 自分が神だなんて、そんなおこがましいこと思っていない…と思う人もいるかも知れません。でも、冒頭の言葉を思い出して頂きたいのです。あの自然科学者のように、私たちは自然の大きさに本当に心底、気づいているでしょうか?歴然とある自然の前で、「人間はほんの少し、それを解明できているにすぎない。人間は何と小さな存在か」と、思えているでしょうか? 例えば、私たちは、いつのまにか、病気は治るはず、薬は効くはず、天気は予想できるはず、災害には対策が練れるはず…と思いこんでいて、それができない時になってはじめて、大慌てをします。あるいは、病気が治らない、薬が効かない、天気予報がはずれる、自然災害への対策が練れていない、と怒ります。それは他者への非難におさまらず、神への批判に発展します。「神さまがいるのなら、なぜ、こんなことが起こる!」と。 しかし、そうやって怒っているのは、実は、「私たち人間は大きな力の前で、なんと小さな存在か」ということに気づけていない証拠です。人間の限界、ということを受け入れていないのです。人間の限界を受け入れずに、自然を、世界を、人間があたかも完全にコントロールできると思いこんでいる。あるいは創造者を前にしてあたかも創造者などいないかのように振る舞っている…それが、「的外れ」ということです。創世記3章のアダムとエバは、まさにそういう問題に陥ったのでした。 [4] しかし、そうであるにもかかわらず、神は人間に、いつも問いかけ、語りかけてくださるお方だ、とも語ります。 「(あなたは)どこにいるのか」(3章9節)と。 この語りかけに気づくのは、ちょうど、その道を極めた自然科学者が「自然は歴然としてある。しかし自然科学はそれを全部は解明しきれているわけではない。私たち自然科学者は、自然のほんの一部を垣間見て、分析しているに過ぎない」と言い得る事と重なります。この自然科学者の言葉は「あなたはどこにいる?」という問いかけに対して、人間の立ち位置を知っているものの言葉です。自分の立ち位置、自分の限界に気づかされるところから、実は、自分を知ることにもなります。 聖書は、 「初めに、神は天地を創造された」と告げます。 これが聖書のメッセージの始まりであり、私たち人間の世界における立ち位置を知る始まりであります。人間の立ち位置を知ることは、人間として生きることの始まりでもあるのです。 |
安行教会 田中かおる牧師 (たなか かおる) |
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