2008年7月のみことば |
終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。 (コリントの信徒への手紙U13章11節〜13節) |
先日、電話で札幌にいる友人に伝道師となったことを初めて伝えました。驚かせたくて就任式が終わるまでは内緒にしていました。どんな言葉が返ってくるのかなぁ・・と思いながら、電話に出てくれるのを待ちました。 「まぁ、神さまって、本当に取るに足りないものを用いられるのねぇ」これが電話の向こうで友人が最初に発した一声です。それも、笑いながらでした。あまりおかしそうに笑うので、私も笑う他なくて、二人でアッハハハ・・と笑ってしまいました。この友人に誘われて初めて教会に行きました。長い付き合いで、お互いの性格をよく知っています。驚くのではなく、笑われてしまったことは期待はずれでしたが、最後に真剣に祈ってくれました。感謝の祈りを捧げてくれました。取るに足りない者を通して福音が運ばれて行きますように、神さまの祝福がありますように、と祈ってくれました。 コリントの信徒への手紙Uは、パウロが書いた手紙です。パウロは多くの手紙を書きましたが、そのどれもが、最後は神の祝福を願う言葉で終わっています。コリント教会は、パウロが基を築いて、建てられた教会ですが、様々な問題があった教会でした。一人の伝道者としてパウロが、この教会に宛てた手紙には、パウロの壮烈な戦いが書き記されています。神学者で牧師であられた竹森満佐一先生は、このパウロの手紙を「嵐の吹きすさぶような手紙」であると言っています。 嵐の吹きすさぶような手紙から、神の愛が深く示されます。この手紙の最後の結びの部分は、その締めくくりであると言えます。 コリント教は、問題を多く抱えた教会でした。言い換えれば、欠点だらけの教会であったと言えるでしょう。内部分裂があり、信徒同士の対立があり、パウロに対する激しい批判がありました。とんでもない教会です。愛も平和もない教会です。しかし、パウロは、「最後に、兄弟たち、喜びなさい」と語りかけています。どんなに問題があっても、どんな対立があっても、どんなに愛がない、平和がないと思えても、パウロは、最後に喜びなさい、と語りかけているのです。何故なら、まさに、その教会に、神が働いてくださっているからです。 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。この最後の13節の、パウロの言葉は、わたしたちの教会の礼拝で牧師が祈る祈りです。教会の礼拝の最後で、この御言葉が「祝祷」として用いられています。この「祝祷」の中に、キリスト教の信仰のすべてがあると言って良いと思います。イエス・キリストと神と、聖霊が示されています。子なる神としてのキリスト、父なる神、聖霊なる神です。神は唯一の神です。唯一の神が、三つの働きにおいて、私たちを救い、私たちを守り、導いて下さっているのです。 まず、主イエス・キリストの恵みという言葉から始まっています。私たちが信じる神は、どのような神でしょうか。宗教は、たくさんあります。キリスト教でなくても、神を信じている人たちはたくさんいます。しかし、それは、その人が想像で描いた神ではないでしょうか。人が想像し描いた神を、神と信じているのではないでしょうか。聖書が示す神は、私たちが信じている神は、神ご自身が、神であることを私たちに示して下さっているのです。神の方から示して下さらない限り、私たち人間は、神を知ることが出来ないのです。 神は、罪ある者を救う神です。罪に滅んで行くしかない者を救う神であることを、主イエス・キリストにおいて示されたのです。それは、神の恵みです。イエス・キリストの十字架の恵みによって、私たちは罪から救われたのです。ここに神の愛があります。神の愛は、キリストの恵みによってのみ深く知ることが出来るのです。 私たち人間の罪が、教会に分裂を起こし、対立を生み出します。神から離れて、自分中心になる人間の罪が分裂、対立を生むのです。突き詰めれば、どこまでも自己中心な私たちの内に、神との分裂、神との対立があるのです。この私たちの内に、神ご自身が働いて下さるのです。神に敵対し、分裂、対立する私たちに、神の方から、和解を示されたのです。私たちの信じる神は、罪ある者を赦し、救う神です。それが、イエス・キリストの十字架と復活に示されているのです。 問題だらけの教会、欠点だらけの私たち、であったとしても、しかし、それでも、私たちは救われているのです。さらに、問題だらけ、欠点だらけの私たちに、パウロは完全な者となりなさい、と語りかけるのです。「完全な者」どういうことなのか、と思います。この完全な者と訳されている言葉は、組み合わせるという意味があります。また、回復、完成という意味もあります。救われる、ということは、教会に組み入れられることです。救われた一人一人が組み合わされて教会となったのです。教会生活には、救われた者として、なすべきことがあります。信仰者の目標があります。 フィリピの信徒への手紙3章14節で、パウロは、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を目指してひたすら走ることです」と語っています。教会生活に立ち止まるということはないのです。絶えず、神に向かって歩むのが私たち信仰者の生活です。毎日、キリストの恵みによって、少しずつ、神に喜ばれるにふさわしい者となって行かなければならないのです。それは、大変な努力が求められているということでしょうか。決してそうではありません。ただ、キリストを見つめ、キリストを信じることにおいて一つとなって行くことです。互いに信仰が深められて行くことです。そのために、互いに励ましあいなさいと教えられているのです。さらに続いて、平和に過ごしなさいと言われています。私たちは自分の力で平和を作り出すことは出来ません。平和は神から来るものです。イエス・キリストの十字架の贖いに示された、神からの和解が、私たちに平和をもたらすのです。 パウロは、信仰によって神との間に平和を得ていると語っています。神に赦され、愛されていることを知って、初めて、わたしたちは、心に平安を得るのです。自分の心に平安がない時、私たちは、互いに励まし合うことも、平和に過ごすことも出来ないのではないでしょうか。コリント教会は、問題だらけ、欠点だらけの教会でした。私たちも、問題だらけ、欠点だらけです。しかし、このような私たちの内に、神が共にいてくださるのです。 私たちに、争いがなく平和に過ごしているから、神が共にいて下さるのではなく、愛と平和の神が、わたしたちの中に、わたしたちと共にいて下さるのです。言い換えれば、信仰によって平安があるのならば、信仰によって平安があるところなら、神の愛と平和が与えられると言えるのではないかと思います。パウロは、嵐の吹きすさぶような手紙を書きました。問題、欠点だらけの教会に、厳しい言葉を書き送りました。しかし、それは、決して断罪するためではありませんでした。この手紙は、最後に、神による平安を祈り、神の祝福を願う祈りで閉じられています。それが、主イエス・キリストの御心であることを知っていたからです。 主イエス・キリストの十字架は、2000年前の出来事です。しかし、2000年前の出来事が、今、この私を救って下さっているのです。聖霊なる神が、この私の内に働いて下さり、キリストの恵みと、神の愛を、知るものとならせて下さっているのです。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。この御言葉の中に、キリスト教の信仰の全てが示されています。 |
越谷教会 棚橋千恵美伝道師 (たなはし ちえみ) |
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