2005年8月のみことば

復活の主に結ばれて

 8月は日本基督教団の行事暦に「平和聖日」があります。日本では1945年8月6日に広島、8月9日に長崎に原爆が投下され30万人の尊い命が一瞬にして奪われました。その日を慰霊の日として平和式典が行われます。今年は敗戦60年になりました。平和を願う私達は風化する歴史認識を明確に心に据え、戦争で犯した罪を懺悔し再び過ちを繰り返さないよう誓い、世界に向けて原爆の悲惨さを伝え、日本の進む方向、平和への使命に応えることができますよう主のお支えを祈ります。

それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
                (ローマへの信徒への手紙7章13節〜25節)



 今日の社会環境は大変憂うべき状態であります。心は荒廃し犯罪が多発している状況は深刻に思われます。聞いていただく聖書のみことばによって、パウロの人間理解により、この深刻な事態を考えてみましょう。
 ローマの信徒への手紙7章7節〜11節に次のように言っております。長いので9節から「わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。」

 パウロは「わたしは、かつて律法に関わりなく生きていました。」というのは彼の若き日のことでしょう。自分の衝動のまま行動し、善悪に余り拘泥せず自然に生きてきました。しかも彼はユダヤ教の家庭の息子として幼き日より律法教育を受けて育ったにも拘らず、良心の痛みをかんじることなく過ごしてきたというのです。が「しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。」つまり罪の自覚、めざめた時、掟が理解されるようになった。掟は、それを守る者には生命を約束しますが、自分の中に住み着いている罪、自己中心、自己満足、自己依存が掟を守ることを阻止し、不従順へと導き、結果、命に導く筈の律法がかえって死に導いたと言うのです。

 わたしたちは今日の社会の憂うべき状態にした主な原因は、親の教育不足、道徳教育の不足、指導力の弱さではないか、もっと家庭や学校で力を入れるべきと考えたりします。しかし、事態はそんなに簡単なものではありません。この深刻な事態は、人間が成長するに連れて一層堕落していくという不合理な状況に気づかされます。
 神は人を善い者として創造された創造物です。しかし、人間は自分に与えられた心の自由を神に従う方向ではなく、神に反する方向に用いたのです。一旦、罪を犯した人間はそのことによって罪に支配される結果、人間を命に導くはずの道徳が人間を死に至らせる事態を招いたのです。このことが「罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまった」といいます。そして、パウロは自分の正体を分析します。そこに人間を死に至らせるという事態を招いたのです。つまり罪の発生です。

 罪は限りなく邪悪なものである。その罪に支配され翻弄される肉の人であるわたしは20節〜21節の「わたしの中に住んでいる罪は善をなそうと思う自分には、いつも悪がつきまとっているという法則に気づきます。善をなそうと思う自分には」神から造られた「人間の本質」「肉なる人」「心の法則」に従おうと思う自分と五体に支配を及ぼしている罪の勢力「罪の法則」が戦いを挑み「罪の法則」が勝利し「わたし」を虜にしてしまっている。
 私はどうしたらよいのでしょう、と深刻な自己分裂の中から24節〜25節前半で叫んでいます。これがパウロであり、人間ではないでしょうか。24節「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」善悪にもがき、悪の力の強さの中で自己分裂をおこしているわたしを誰が救出してくれるでしょうか、立ち直ることができましょうか、と回心以前のパウロには問うのです。

 実はパウロは、既に4節で回答しております。「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。」
 どういう意味かと申しますとわたしたち人間は自分で罪を犯し、その結果として罪に支配されているため死に至る存在でありますが、今や復活した主イエス・キリストを信じることにより、自分自身の所有物ではなく、自分はキリストのものとなることが出来るのです。神に従って行動してこそ、イエス・キリストに生かされるのです。そのことによってわたしたちは自己主義を乗り越え、隣人を愛し、理解し、協力し、共に生きる喜びが与えられるのです。わたしたちは生きる限り罪との戦いは続きますが、キリストに結ばれることによって勝利する生き方が与えられるのです。聖書に聞き、神に従う行動ができますよう御力を祈り求めましょう。
 
三芳教会  柿本俊子牧師
(かきもと としこ)




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