2001年12月のみことば

 

“少年”のような信仰

 

その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

        (ヨハネによる福音書6章1節〜21節)

 

男だけで5千人もの人々が、五つのパンと二匹の魚で満腹した!‥‥この聖書の箇所を読む度に考えさせられます。この御言葉は一体私たちに“何を”伝えたいのだろう?私たちに“どうすること”を求めているのだろう?

 先週の礼拝で聞いたナインのやもめの息子が生き返らせられる箇所もそうですが、今日の聖書の箇所も、まさに“頭”ではなく“腹”で読んで受け取るべき御言葉でしょう。頭で、常識的に、合理的に考えて、こんなことはあり得ない、これは聖書の中の“御伽話”だ、で済ませてしまうのは簡単です。けれども、仮に御伽話だとしても、そこには読む者に対する無限のメッセージが込められています。読み方次第で、現代人である私たちの生き方を問い、私たちをハッとさせ、立つべき位置に立ち直させる神の恵みが見えてきます。                       *

主イエスは、ご自分の後を追って来た群衆に食事を与えようとして、弟子のフィリポに、 「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(5節)と問われました。そう問われたとき、主イエスには別の意図があったようです。けれども、フィリポはその問いを文字通りに受け止めて答えるのです。 

 「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(7節)

私、ふとアホな事を考えました。今の日本だったら、二百デナリオンでどれぐらいのパンが買えるだろうか‥‥‥1デナリオンというのは、当時1日働いた分の労賃でした。仮に日本で今、1日働いたら1万円だとしましょう。とすれば二百デナリオンは二百万円。先ほど子供たちに分けたパンが1袋6個入りで100円ですから、2万袋買うことができます。そして、成人男子の数が5千人ということは、女性や子供、高齢者の人数まで考えると、一人に1袋は当たらないだろう。そうすると、成人男子にはちょっと足りないかな‥‥‥などと考えたりしました。

それはいいとして、主イエスとフィリポがそんな会話をしているところに、アンデレがやって来て、一人の少年を取り次いで、こう言います。

 

 「ここの大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こん  なに大勢の人では何の役にも立たないでしょう」(9節)

 

この少年は、主イエスや弟子たちの割りと近くにいて、主イエスが群衆に食事を与えようとしていること、そして弟子たちが困っている様子を見ていたのでしょう。そして、イエス様のお役に立とうと思って、自分が持っていたパンと魚を差し出したのだと思います。それは現実的に考えれば、アンデレの言うとおり、“スズメの涙”にもならない、何の役にも立たない行為です。 

けれども、少年はそんなことを考えてパンと魚を差し出したのでは、もちろんありません。まだ、そんな計算などできない、あどけない年齢だったのかも知れません。ただ主イエスのお役に立ちたい一心で、持っているものを差し上げようと思ったのでしょう。

けれども、一つだけはっきりしていることがあります。それは、このパンと魚を差し出せば、自分が損をする、ということです。自分が持って来た物を、全部自分で食べられなくなる。そのことはこの少年にも分っていたでしょう。それでも、イエス様のお役に立ちたくて、皆と分け合おうと、自分のパンと魚をイエス様に献げたのです。そしてそこに、5千人が満腹するという奇跡が起るのです。

誤解のないように前以て言っておきますが、私は、聖書の中の“奇跡”を決して否定はしません。ただ、奇跡物語も色々な角度から読み取ることが必要だと考えています。主イエスは奇跡を起こしたかも知れない。でも、今の時代には主イエスはいない。その現代において“主イエスの御業”が起るとはどういうことかと考える。それが、奇跡物語から、私たちにとって生きたメッセージを汲み取ることだと思うのです。

少年はパンと魚を持って来ていました。私は、他の人々、大人たちも、かなりの人が何か食べる物を持って来ていたと思います。湖の向こう側までついて行こうというのですから、そういう用意があってもおかしくはありません。そして、食物を持っていた人々は最初、差し出すつもり、分け合うつもりはなかったのです。これは自分のものだ。他人に分ける分まではない。腹がすいていれば、なおさらそう考えたことでしょう。皆、自分のことしか考えなかったのです。けれども、パンと魚を主イエスに献げる少年を見て、恥ずかしくなったのではないでしょうか。自分のことしか考えていない自分、損をしないようにと計算してすべてを独り占めにしようとしている自分の間違いに、ハッと気づかされたのではないでしょうか。そして、自分が持って来ていた食物を主イエスに献げた。皆と分け合った。それによって、5千人が満腹するという出来事が起きた、と私は想像するのです。

「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ福音書22章39節、他)

 

主イエスは、私たちにそのように教えます。これは主イエスのオリジナルというのではなく、イスラエルの律法の中の教えであり、旧約聖書のレビ記19章18節にあります。そして、その前後に、隣人を愛するとはどうすることかが具体的に書かれています。その一つに、収穫するときに畑の隅まで刈り尽くしてはならない、落ち穂を拾い集めてはならない、ぶどうも摘み尽くしてはならない、落ちた実を拾い集めてはならない、という教えがあります。それは、貧しい者、やもめや孤児、寄留している外国人のために残しておかなければならないのです。彼らが生きていかれるように、すべてを自分のものにすることなく、分かち合いなさい、というのです。

主イエスは、パンのことをフィリポに問われたとき、「ご自分では何をしようとしているか知っておられたのである」と6節にありますが、主イエスは、人々から隣人愛を、“イスラエルの心”を引き出そうと意図しておられたのではないでしょうか。ご自分で二百デナリオンのパンを買って与えることではなく、人々の中から、分かち合う心を引き出そうとしておられたのではないでしょうか。

そして人々は、主イエスによって自分の心を問われ、ついに自分のものを献げ、分かち合うに至ったのです。奇跡とはこのことではないでしょうか。奇跡というのは、主イエスが神の力でパンを増やし、分け与えてくださる。だから、私たちは何もしないで主イエスの力を信じていればよい、というのではありません。世知辛いこの世の中で、確かに、損をしないようにと計算高くなったり、自分のことで精一杯、他人のことを考えるゆとりなんてない、というのも分らないではありません。けれども、そういう世の中で、私たちが主イエスに導かれて、自分の心を問い直し、損をしないようにという計算を打ち破って、隣人のことを思いやる気持を取り戻して生きる。それこそが“現代の奇跡”と言っても良いのではないでしょうか。

すべての人を愛そうとする主イエス。そのためにご自分の命を献げられた主イエス。いや、この“私”を愛するために、十字架の上で大損をしてくださった主イエス。この主イエスの愛に応えて、主イエスのために、損を厭わずに献げる信仰。愛する信仰。それこそが主イエスが喜ばれる生き方なのです。                      

* 

五つのパンと二匹の魚を献げた少年の行為を、弟子のアンデレは「何の役にも立たないでしょう」と言いました。確かに、現実的に考えれば何の役にも立たないでしょう。常識的に考えれば無駄なことです。

けれども、たとえそうだと分っていても、その計算を度外視して、“人”としてなすべきことをなさねばならない時が、私たちにはあります。効果や結果ばかり考えていたら、人として動くべき時に動けません。

そんな時、信仰は私たちの決断を助けてくれます。主イエスは、五つのパンと二匹の魚で5千人の人々を満ち足らせてくださったのです。神様は、私たちの愛と行為を決して無駄にはなさらないのです。目に見える結果は無駄に終ることもあるでしょう。けれども、それがすべてだと思うのは人間的な判断です。自分の分らないところで、自分の愛と行為はきっと生きている。生かされている。そう信じて無駄を厭わないのが信仰です。

信じて、自分の小さなお弁当、小さな愛を、神のため、人のために差し出しましょう。

 

                    坂戸伝道所  山岡 創牧師

                   (やまおか はじめ)

 

 

 

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