秘密の自分史 その1

誕生〜大学院

誕生

 196*年、3月26日の夜10時ごろ生まれる。予定日は4月9日だったので、教員だった母は、春休みから産休に入り、ゆっくり産むつもりだったらしい。しかし、春休みに入ったとたんに生まれてしまった。生まれるときからあわてんぼうだったようだ。しかし、4月はじめではなく、3月末に生まれた・・・このことは、後の人生に大きく影響することになる。早生まれというのは、子どもにとってすごいハンデなのだ。国体の選手だって早生まれは少ないという統計が出ている。生まれ順の名簿は、いつもビリ。クラスでは一番チビ・・・等々。おかげで、私の保育園〜高校生活はちょっと暗めであった。

 長子であり、父方・母方のどちらでも初孫だったので、ずいぶんかわいがられたと思う。その上、小さい頃から私は手のかからない子だったらしい。後追いなどもせず、とても楽だったと母は言っている。

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保育園

 近所の保育園に2年間通う。年中組は「竹組」さん、年長組は「藤組」さんという。しぶいでしょ?お寺だったから、一応仏教系だったのかな?集会みたいなときに毎日歌う歌があって、それが「むすんでひらいて・・・♪」から始まって、途中は忘れちゃったけど、最後はお釈迦様に手をあわせましょうみたいな感じで終わるの。

 保育園のことはあまり覚えていないんだけど、なぜか鮮明に覚えていることが2つ。1つめは、おゆうぎ会の合奏で楽器を決めるときのこと。自分では鈴をやりたいと思っていた。なのに、先生が、「**をやりたい人、手を上げて〜!」と言いながらどんどん決めていくんだけど、鈴が出てこない。とうとう最後の大だいこになって、決まっていないの私だけだったので、「じゃあ、もっちゃんは大だいこやってね。」ということになった。私は、大だいこはイヤで、黙ってポロポロ泣き出してしまった。はじめ、皆はわけがわからなかったみたいだけど、そのうち(この子は、大だいこはやりたくないんだ。)と察し、ある男の子が「黙ってないで、言えばいいのに〜!」と代わってくれた。私は、確かタンブリンになったと思う。とにかく、私はずっと自己主張もろくにしないおとなしい子だった。今から思うとうそみたいだが、本当の話である。

 もうひとつの思い出は、予防注射。その頃、予防注射は保険センターとかではなく、各保育園でやっていた。注射が大嫌いだった私は、ある時、保育園を脱走して家へ帰ってしまった。それも、友だちには、「帽子のゴムが切れちゃったから、お家に帰ってなおしてもらってくるね〜!」とかなんとか、わけのわからない言い訳をして、である。ゴムも、自分でわざと切ったか伸ばしたかしたような気がする。妙に度胸はあったんだろうか?いやいや、それほど痛いのはキライだったんだろうか???

 そうそう、年長さんぐらいの時に、保育園でやっているカワイかなにかの音楽教室に通い始めた。でも、遠くて一人で行けないので、という理由ですぐやめて、近所でピアノを教えている人の所にかわった。だねどね、遠いっていったって、自宅からほんの2、300メートルだ。もっとも、けっこう車の通りの多い道路を渡らなくてはならなかったから、危なくて心配だったと思うけど。新しい先生のお宅は、私の家の斜め前だった。確かに、近いよね。

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小学校低学年

 自分で言うのもなんだが、優等生だったと思う。おとなしくて先生の言うことはよくきいたし、体育以外の成績もよかった。ていうか、私は、すご〜く単純なお子様だったのだ。先生が、「〜しましょうね。」「〜をがんばりましょう。」というと、すぐその気になって、一生懸命やってしまう。それは違うんじゃないかとか、私はこうしたいのになんてことは、夢にも思わなかったのだ。だけど、早生まれでチビというハンデのため、体育と給食が苦手。ずいぶん暗い小学校生活だ。体育の実技は、クラスでも最悪の成績だった。鉄棒も跳び箱も、いつも一番最後までできなかった。かけっこもマラソン大会も、いつもビリ。好き嫌いはそれほどなかったが、食べる量が少なく、食べるのも遅かったので、のろのろ給食を食べていると掃除が始まり、悲惨だった。

 だけど、子供心にも、たくさん食べて大きくならなくちゃ!と思ったんだろう。給食の方はすぐにそれほど困らなくなったが、運動は嫌いなものだから、2年生ぐらいからめきめき太り始めてしまった。これも、今の私からは想像もできないとよく言われるが、中学生ぐらいまでの私は、ものすご〜く太っていたのである。そういうわけで、体育の成績の方は改善される気配もなく、一生のコンプレックスとして残ることになった。

 一応ピアノを習っていたこともあり、音楽は好きだったし、得意だった。消極的なくせに、バス旅行の車中でマイクを握って歌いだしたり、先生の指名で皆の前で歌っちゃったりもした。2年生にして裏声で歌うという技ができたんである。

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小学校高学年

 相変わらず、通知表の所見欄には、いつも「消極的」とか「もっと積極性が出るとよい」と書かれるおとなしい子であった。それでも、とりあえず成績はよかったので、何を間違ったか4年生の時、学級委員に選ばれる。当選が決まったときは、不安で涙が出てしまった。これは、本当の話である。しかし、学級委員が集まる児童会に出ても、そこでの決定事項をクラスの皆の前で伝えることができず、先生に怒られた。さすがに皆もあきれたらしく、以後、高校に入るまで役員等には無縁であった。

  4年生から、部活動に入れる。私は、迷わず音楽部に入った。なんていう編成なのかな?吹奏楽に鍵盤ハーモニカとピアノ、電子オルガンが入っていた。それから、屋外での演奏は、男子は楽器なのだが、女子はバトンやフラッグ、ポンポンなどをやった。運動神経のよくない私は、当然バトンも下手で、落とす心配のないポンポンに回された。でも、私は男子と一緒に楽器を吹きたいなあ、と思ったもんだ。そうそう、4年生の私にまかされた楽器は、鍵盤ハーモニカであった。その他大勢の中で鍵盤ハーモニカを吹く私の前の席に、フルートのかっこいい上級生がいた。おそらくその頃から、(いつか、あのかっこいい楽器を吹きたい・・・)という気持ちが育っていったのだと思う。

 6年生の後半になって、なぜか音楽部の形態が変わることになり、吹奏楽に編成しなおすことになった。私は、もちろんフルートを希望したのであるが、割り振られた楽器はピッコロ。ほんの数ヶ月のことではあったが、私はピッコロ奏者だったのである。私の腕前も楽器もひどいものであったが、一応、郡の音楽会で「マルセリーノの歌」なんて吹いた。だけど、あまりに恥ずかしい過去なので、私はこの体験はなかったことにして、通常、笛の経験年数に入れないことにしている。

 そうそう、そういえば小学校の学芸会かなにかに、中学校の吹奏楽部員がゲストで来て、打楽器アンサンブルを演奏したことがあった。先輩たちはさすがにうまくて、(中学校へ行ったら、吹奏楽部に入るのもいいなっ!)と、その気になりやすい私は、思ってしまったのであった・・・

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中学校

 部活は、やっぱり吹奏楽部である。体育が苦手&大嫌いな私に、ほとんど選択の余地はない。とはいうものの、吹奏楽部は体育系文化部と言われるように、ほとんどスポ根の世界である。毎朝・毎夕、腹筋50回。永遠に続くかと思われる、ロングトーンや音階練習。先輩に対する態度なんかも厳しいし、練習もきつい。血と汗と涙の世界である。それでも、スポ根マンガ全盛の時代に育った私は、部活は厳しいもんだと疑わず、けっこう真面目に練習に励んだ。

 また、当時の顧問の先生が、大学を出てすぐ赴任したのだが、田舎の中学校の無名の吹奏楽部をわずか3・4年で県下でも屈指のレベルにしてしまったという、すごい方であった。それほど大きな学校ではなかったので中編成しか組めず、コンクールでは全国大会への道はなかったが、東海大会までは行ったし、文部大臣奨励賞なんてのをいただいたりもした。

 楽器は、もちろんフルートを希望し、ラッキーなことに希望が通った。顧問の先生も、こんなチビにはフルートぐらいしか持たせられないと思ったようだ。ところが、呼吸練習とか頭部管だけのロングトーンとかを延々と続け、やっと楽器を持たせてもらえるようになったある日、自分の不注意から楽器を落として壊してしまった。なおるまでの数週間は、打楽器パートに修行に出された。これが妙に性に合っていたようで、以後打楽器のエキストラとして重宝がられることになる。コンクールは人数制限もあるし、フルートが過剰気味で打楽器が足りない時は、よく回された。アンサンブル・コンテストにも打楽器で出たし、高校でも大学でも打楽器をたたかせてもらった。

 そうそう、そういえば中学入学の頃最高に太っていた私が、ハードな練習のおかげでみるみるやせていった。私って、間食すると太るタイプだったんだね。毎日暗くなるまで練習して、家へ帰るとすぐ晩御飯・・・間食しているヒマなんて、なかったもの。たまにしか会わない親戚のおばさんなんて、病気じゃないかって真面目に心配してくれたほどやせた。吹奏楽のおかげで苦労せずしてスリムになった私・・・顧問の先生の名前をとって、ひそかに「**式ダイエット」と呼んでいる。

 顧問の先生の勧めで、ムラマツの楽器を買った。(お金は、もちろん親が出してくれたんだけどね。中学生だし。)頭部管は銀、本体は洋銀で、当時一番安いタイプだったと思う。先輩も同輩も後輩もみ〜んな同じ楽器だった。

 私が2年生になったとき、ホルンに入ってきた1年生が、今の主人。実は、この頃からのつきあいなのである。とはいっても、当時は単なる先輩と後輩の関係。まさか将来結婚することになろうとは、夢にも思わないのであった。

 部活に明け暮れた健全な中学校生活・・・そういえば、高校受験の日も午後からアンサンブル(打楽器)の練習に行ったっけ。しかし、これはほんの序の口。吹奏楽に燃える私の青春は、高校・大学とまだまだ続くのであった・・・

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高校

 進学した高校は、一応それなりのレベルの進学校ではあるが、田舎であることと元女子高で商業科もあるため、案外のんびりした雰囲気であった。そののんびりムードの中で、私は相変わらず吹奏楽部の練習に励んだ。顧問の先生は名前だけという感じで、指導にも運営にもほとんど口を出さず、私たちは自力+OBの力で好きなように活動していた。出身中学校から一番近い高校だったので、中学の部活仲間もたくさんいたし、新しい友だちもできた。きちんとした指導は受けられなかったので、レベルはそれほど高くなかったが、中編成のくせにコンクールで「木星」を吹いちゃったり、けっこう楽しかった。その時の同級生のOB会を「木星会」という。

 中学卒業と同時に御津吹奏楽団にも入ったので、コンクール・シーズンなど、夕方まで高校で練習し、その後御津吹の練習に行くというなかなかハードな生活であった。それでも、それほど嫌だとか疲れただとか感じなかった。やっぱり若かったのね・・・

 私が2年生になったとき、やっぱりホルンに入部してきたのが主人。私を慕って追ってきたわけでは、もちろんない。彼も御津吹に入団したが、単なる先輩後輩の関係は、まだまだ続くのであった。

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大学&大学院

 なんとか浪人もせず、地元の国立大に入る。本当に親孝行な子だ。ここまできたら、当然、吹奏楽団に入団である。フルートの希望者はちょっと多く、残れるかどうか心配もあったが、出身中学の名前と押しの強さで乗り切った。実は、私、大学入学をきっかけに性格を変えたいと思ったのだ。おとなしい・目立たないことがいいと思っている私はやめて、もうちょっと積極的になろう、と。この作戦は、自分でいうのもなんだが、けっこう成功した。だけど、本質的な部分は簡単には変えられない。主張のなさは、いまだに自分の演奏にはっきり出ている。

 大学の楽団は、定期演奏会、プロムナード・コンサート、コンクール、訪問演奏、バイト演奏・・・等々、次々に行事があって、忙しかった。2年生の時には、1年間ピッコロ専属になった。私のピッコロ好きは、ここから始まる。中学・高校の部活は編成も小さく、ピッコロは使わなかった。ところが、大編成の上にピッコロでのっかるのは、快感なんである。先輩をさしおいてソロももらえて、しかも誰も文句言わないし。

 今までの楽器が物足りなくなり、新しい楽器を買ったのもこの頃。ムラマツのADである。アルバイトで貯めたお金を10万円だけ自分で出して、あとは、「成人式に着物なんか買ってくれなくていいから。嫁入り道具に持っていくから。」と、母におねだりした。(お母さん、ありがとう〜!)この約束は、ちゃんと守りましたが。

 そんなこんなで4年生になり、最後の定演のメインは「シエラザード」・・・吹奏楽版では、あの有名なヴァイオリンのソロがフルートにくる。やったるぜ!という頃、ここまで順調だった私の人生に、ちょっと暗雲が立ち込めた。採用試験に落ちたんである。さて、どうしよう?と思った矢先、卒論の担当教官から、大学院に進学しないかという話があった。大学院ができたばかりで、学生がほしかったようである。ということで、お気楽な学生生活が2年延長されることになる。

 大学の吹奏楽団にいつまでも居座っていては悪いので、とりあえず引退。しかし、進学を決めると同時にレッスンに通い始める。この6年間が、笛的には一番充実してたな。楽団が御津吹だけになったので、そちらに専念。副団長をやったりもする。その時団長だったのが今の主人。単なる後輩から、やっと昇格である。

 再度挑戦した採用試験には無事合格したものの、聞いたこともない僻地の小学校に赴任することになる。そして、就職、結婚、出産・・・と笛の暗黒時代が訪れたのであった。

 

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