体験発表


1.「脊椎手術のあとさき」

S.S.

 トップバッターということで重みを感じています。神奈川県藤沢市から 来ましたSです。汗っかきのSです。真夏の炎天下にネクタイ、背広で 出るってことぐらい酷なことはありません。額、体から、止めどなく汗が 流れ出、髪はくしゃくしゃ、下着もぐっしょりになります。 サラリーマンをやっていますと、それでも左手にはカバンを持って、 右腕には上着をさげて、「行ってまいりま〜す」と出て行かなければ なりません。やっとです、この頃涼しくなって、ホッとした気分に なれたのは。

 一日のうちで一番幸せに感じるときは、着替えてシャワーで汗を流す 瞬間です。小学3年になる娘とお風呂に入る機会があり、「お父さんの 背中、流してくれるか?」と言いますと、「うん、いいよ」と元気に 背中をこすってくれたんですが、「3年までだよ、4年になったら、 入ってやんないよ」などと悪態をついていました。そんな娘が手を休め 「お父さんの背中の龍、薄くなってきたね」とつぶやきました。 「背中の龍」っていうのは、術後の背中を見て、娘があまりにびっくり するもので、「お父さんの背中には、龍がいるんだ」と言ってなだめた ものなんです。ちなみに私の家内は「ごかい」とか「いそご」とか言って いますが、娘に言われて背中を見ますと、「背中の龍」はずいぶん薄く なって目立たなくなりました。「そう言えば、あの手術してから5年に なるんだ」。

 手術前は、極度の前傾姿勢があり、車を察知できなかったり、前方から 来る知人にあいさつもできないくらいひどかったものです。前方視界は 5mぐらい、180cmあった身長も163cmぐらいになってしまい、日常生活 にも不自由を感じてました。AS患者の方なら、どなたも経験されて おられると思いますが、同じように私も幾多の治療法にとびつき、 その結果、期待ほどの効果が無く……と、この繰り返しでした。そんな ある時、今は亡き父が朝日新聞にASのコラムを見つけました。父は、 我がことのように喜び、自分自身、賛助会員として入会し、私はさっそく 井上先生に連絡を取りました。

 先生は「難しい手術だけど、どうせやるなら経験のある先生に、 一度みてもらったほうが良いんではないか」ということで滋賀医大 付属病院の福田教授を紹介して下さいました。そして、こんなことも おっしゃいました。「どんな名医でも、医者と患者には相性という ものがある。実際に会って自分の目で見て、納得してから決めて下さい」 とも。翌年、福田先生のもとで手術を受けました。正式には「腰推矯正 骨切り術」と言うそうです。当日は井上先生も立ち合って下さり、 大変心強い思いでした。手術には6時間かかり、麻酔から醒めたのは 9時間後だそうです。16日間、ベットに寝たきりで、17日目から 体幹ギプスを装着、徐々に歩行訓練を始めて退院までには42日間が かかりました。

 手術が終わって、真っ直ぐ仰向けに寝ている自分の姿に驚きました。 本当に喜びでした。身長も175cmに伸び、前方視界も良くなりました。 それでも、退院時は、駅の階段を家内の手にひかれながら一歩一歩 上った時、正直「もう、会社には戻れないかな」と覚悟を決めた程 でしたが、人間の体とは不思議なもので、あんなにギクシャクしていた 体が、経過とともにずいぶん滑らかに馴染んできたなと思っています。

 ASと言いましても、それぞれ個人差があり、手術が最善の道とは 思いません。福田先生も「手術してもASが治ったわけではない、 ただ症状を矯正しているに過ぎない」、また、「脊椎の手術です。 へたをすれば下半身不髄になるということも考えられない事でもない」 とおっしゃってました。

 手術をして良かったかどうか、結論づけるのは早いかも知れませんが、 自分の感想と家族の意見を集約しても、やはり手術をして良かったなと 思っております。それは姿勢のこともありますが、なにより大きな成果 というのは「自分の気持ちが前向きになったということではないかな」 と思っております。

 時間は〜、あっハイ。この辺で終わらせて頂きます。 ありがとうございました。


2.「あと5年、医師に告げられ、命燃やして」

T.S.

 杉山と申します。何かこの、皆さんの前、大勢のなかでお話しするって 初めての事ですから、緊張しておりますので、何を言うかよく判らない んですけど。

 私は、昭和48年頃から、膝と腰の痛みがございました。それから、 昭和49年の4月には東京医科歯科大学で肝臓がんの手術を受けました。 その術後、胸椎とか、首とか、手首とか、膝とかが、だんだん腫れて きたんです。16回ぐらい繰り返しまして、その度に病名が違うんですね。 神経痛とか、関節リウマチとかで、ASという、ちゃんとした病名が 頂けないままに入退院繰り返してきました。それであの〜、平成4年 12月頃、主治医が「あと5年、生きられればいいかな」とポツッと 言ったんです。その退院の朝、子供の時から体が弱くって、その時 その時を一生懸命生きて来ましたけど、「あと5年」って期限を 切られた時に、初めて自分の人生というものを考えました。 「これでいいのかな、親に不幸かけて生きてきたけど、あと5年、 あと5年あるなら生きたいな」と思いました。

 そんな時に、友人が朝日新聞の切り抜きを送ってくれたんです。 それには、ASのことと、井上先生のことが載ってまして、 「あなたの症状がよく似ているから、いっぺん、その先生を訪ねて みたら」と言われたんです。東京医科歯科大学と順天堂大学は隣です よね。私もずいぶん考えたんですけど、「あと5年」という期限を 切られたんだから、「やれるとこまでやってみよう、それでがんばって みよう」と覚悟しまして、井上先生のところへお電話を差し上げました。 そして平成5年1月に診察を受けました。その時、初めてASという 病名をつけて下さいました。その時の気持ったら、私、本当に嬉しかった んです。病名を貰うってことは、あんまり良いことじゃないですよね。 だけど私は20何年もリウマチだ、神経痛だって、行くたんびに病名が 違ってたんです。それで治らないで、だんだん悪化していくんですよね。 それが井上先生のところで初めて「ASですよ、この病気はこういう ふうになって、こうなるんですよ」って説明されました。「あと5年って 言われてきたんですけど…」と先生に言ったら、先生は笑って 「そんなことないですよ。この病気では死にませんから」とおっしゃ いました。

 それから、ちょうど今年が5年になるんです。でも、こうやって 生きています。でも5年って切られたんだから、その中で何か、 こう生きて行くことを考えなければと思いました。皆さんも同じ思い だと思うんですけど、痛いんですよねこの病気は。本当に痛いんですよ。 歯をくいしばって、くいしばって我慢するしかないんですよ、 布団かぶって。だけど、その一瞬一瞬我慢して生きることが、 ASの患者に与えられた宿命だと、私、思ってるんです。それを乗り 越えなければ、この先の人生が無いんだと、私の人生は無いんだと 思うようになりました。

 正直言って、2週間前から胸の痛みがありますし、頚椎の痛みも あります。今日、ここへ来るのもずいぶん迷いましたけど、会長様から お電話を頂きまして「ぜひとも出席してください」っていうこと でしたので、何とか今日の日が無事すみますようにという思いで 来ました。ここに、いらっしゃる皆さんを見ていて、「まだ、大変な人 がいたんだ、私ばかりじゃないんだ」という気持ちがすごく湧きました。 本当に、今日は良かったと自分で思っております。
 どうも、ありがとうございました。


3.「病院嫌いの私が入院するはめになって」

S.Y.

 こんにちわ、長崎から来ましたYです。会の直前に会長から電話が あって、「何か、体験発表を……」ということで。当直明けのボンヤリ とした頭で、「あ〜、ハイハイ」と返事をしてしまいました。田中会長の ことはとにかく尊敬してるもので、言われたら必ずそのまま何でも受けて しまうのです。絶対に「ノン」と言えないというか、優しく徐々に真綿で 首を絞めるような感じで、いつのまにやら「ハイ、是非やらせてください」 という形になってしまいます。(笑)

引き受けはしたものの生来のいい加減な性格ゆえ何も考えていなかったの ですが、また会長から電話がかかってきて、「テーマを決めました “病院嫌いの私が入院するはめになって”で、どうでっしゃろ。胆石で 入院した時、ASのため手術なんか大変だった、その辺を話したら どうですか」とポイントまで教えて下さり、「そうですね。それしか ありませんね」と二つ返事で答え、テーマは決まったのでした。

ところが、結局テーマについては何もまとまらないまま、本日の総会に 出席することになってしまいました。それで誠に勝手ながら、一般的な ことをお話しするということで、ご容赦願いたいと思います。

 会長さんから電話もらった時、母ちゃんに(妻ですけど)話したら、 「ASらくちん会は、人材が不足しちょるのね。あんた、体験って 言ったって、別になんもしとらんでしょ。やりっぱなしやった じゃないの」といわれまして……。「そう言ってしまったら、みもふたも ないけど……、何もしとらんのもひとつの体験じゃろうて」、「い〜や、 もう少し、ちゃんとした人がおるはずじゃ!?」と言われてしまいました。

 結果論ですが、確かに何もしなかった、手を打たなかった、自然の 成行にまかせた、というのが私のAS対処法であったように思います。

 24才の頃、1ヶ月程静岡の総合病院に腰痛で入院したことがありました。 今思えば、あれがASの初発ではなかったのかと自分で勝手に診断している のですが、突然の激痛がありました。1ヶ月の間検査を繰り返して、結局 原因は分からず、「腰痛症」ということで退院することになりました。 確かに腰痛で入院したのですから、腰痛であることには違いないのですが (?)、「腰痛症」という病名があるのかなぁと腑に落ちなかったことを 覚えています。

 病院についても、決して初めから病院嫌いだったというわけではないの ですが……、なにか結果的に信頼できないというか、どうもいい加減と いうか、つまりは自分の、患者本人の「自助努力」「自力更正」しかない という想いを強くしております。九州大学をはじめとして、九州で一応 名が通っているというか、よく知られた良いとされる病院には殆ど行って みたと思うのですが……。

 まあどこでもいい加減というか、結局なにも分からないというか、 レントゲン写真をとるだけとって痛み止めの薬を出して、「またなにか あったら来て下さい。この薬は胃腸障害と難聴が起こりやすいから気を 付けながら飲んで下さい」という感じで……。自分なりの素人判断で、 「こりゃ、あやしいなぁ、やばかばい、こんなもん飲んだらえらい事に なる」と思ったりしたことも覚えています。かと思えばたいして調べも せずに「入院して手術しましょう。帰りに入院の予約をしていって下さい」 とあっさり言われたこともありました。痛みのある患者の側から言えば、 「もうちょっと真剣に取り組んでよ」というのが本音でした。

 まあそんなこんなでお医者さんへの不信感と生まれつきのいい加減な 性格がミックスされて自然体というと聞こえが良すぎますが、成り行き まかせのその日暮らし、行き当たりばったりで今日まで何とかやって来た というのが、一番真実に近いように思います。

 この「らくちん会」を知ったのも、今住んでいる所の近くにある虹が丘 病院というところの平先生という内科の先生が自分で文献を取り寄せて、 「こういう会があるみたいだよ」「大阪の方が熱心みたいだ」とご自分で 調べて下さって、教えてくれたからなのでした。それだけ九州では 知られていないというか、患者さんが少ないので分かりにくい、関心を 持って調べて下さった専門外の内科の先生によっていろいろなことを 知ったというのが、実状なのです。だから大学病院だからどうこうと いう問題ではなく、一日も早く偶然に自分にとって良い先生に巡り合う というのが、九州では(?)重要なことのように思えてなりません。

 今日も総会に出席して、そして先程から皆さんのお話しを伺っていて、 ASの痛みというのはとても個人差がある、人それぞれ出方、症状が ものすごく違うなあと思いました。ひとりひとりの痛みが違う。自分の 痛みは自分でしか分からない、患者さん同士でも分からない部分は 分からない。結局、自分で自分の痛みに対処していくしかないわけです。

 今月号の「らくちん」に載ってたんですけど、「本来の自分らしさ、 ペースを失うと、悪くなる」っていうか、そんな言葉が載っていたと 思うんですけど、あれが、非常に良いことが書いてあるなぁと思った んです。

 自分は若い時から、あったかいお風呂に入るとなんか痛みが消えて いく、軽くなっていくような気がして、その後一貫してこの「入浴療法」 を信奉して、自分に「風呂に入ればどんなに症状が良くない時でも痛み が軽くなる、気分も良くなる」と暗示をかけてきました。

 特に病院にかかってはいませんが、どんな病院より朝晩の風呂と決めて いるので、身体が自然に反応するのでしょうか?朝晩風呂に入りさえ すれば、一日元気に何とか過ごせるのです。自分なりのペースでASと 付き合っていくしかありません。あるいは、ASのペースに自分が 寄り添っていくしかありません。

 痛みは厳然としてあります。痛いのだから、それは仕方ないのだから、 その他の部分という残りの部分っていうか、そうじゃない部分で明るく やっていく、それしかないだろうと思って、仕事以外にいろいろな ボランティアとか活動をスケジュールの中にいれて、ヒマな時間、痛み について考え込む時間をないようにして、自分のペースをつくり上げて います。

 私が日頃いつも尊敬の念を持って接している婦人部長のMさんについて 何ですけどこの方が、御自身がかなり悪い状態にありながら、福祉作業所 をつくられて活動されている。又神戸に震災があれば、被災者の激励に かけずり廻っておられる……。

 何回目かの総会で「この病気になって良かった」とおっしゃったことが ありました。どうして「なって良かった」と断言できるのか自分なりに 考えてみたのですが、「今まで見えてなかったものが見えるようになって きた」ということではないだろうかと思いました。一つのもの何かを 失えば、別の何かを得られる。何かを失くせば、別の何かが新たに見えて くる。何かを失わなければ、別の何かは永遠に見えてこなかった……。

 だからASも悪くはない、捨てたものでもないわけです。
 もっとも自分に与えられた条件の中で、自分の生を最大限にふくらませ 充実させようとする積極性がないと、見えるものも見えてはこないの ですが……。

 私も仰向けに寝られません。
 仰向けが駄目なら横になって寝ればいいだけの話で、まあこれからも 残る機能を目一杯フル稼働させて、ノホホンノホホンとやっていくつもり です。  体験発表には程遠いものになりましたが、これで終わらせて いただきます。


4.「ASに育てられて」

S.M.


 え〜と、話しづらくなってしまいましたが、田中会長からは 「ご主人のことを話してください」って言われたんです。今は理解ある 主人ですけども、そうでない時期がありました。でも、それを暴露すると 帰りの飛行機が別々になると思うんですよね。それで、テーマを変えて 頂きました。私も主人もASに鍛えられ、育てられたと思っていますので、 そんな事をお話ししようと思います。「人生は10分では語れない」って 会長に言って15分にして貰ったんです。

 中学から、膝が痛んだり、からだが“ずきずき”してました。高3の 時には股関節が激痛に襲われて動けなくなって、近くの病院に入院 しました。5kgぐらい痩せて、両親が心配しまして、「大きい病院へ 行ってみよう」ってことで、いろんな病院へ行って検査をしました。 でも結局は判りませんでした。病名はずっとつきませんでした。 ある大学病院に10年以上居ましたが、30過ぎまで病名はつきません でした。

 私はASという病気を本で自分で調べて、25才ぐらいの時、 その医学書を読んだんですけど、あまりに経過が似ていたので、 主治医に何回も「ASで、ないだろうか」と聞いたんですけれども、 主治医は「違う」「リウマチともいえない」と、いつも言われるんです。 いつもどこかに痛みがあって、痛まない日がなくって、からだが だんだん硬くなって、動かなくなっていく不安の中に青春時代が ありました。民間療法とか、いろんな人が「いい」って言われる所に 通いました。その旅は、36才でもう股関節が動かなくなって寝たきり になるまで続きました。治りたい、治したいっていう私の心を 無視してASはどんどん進行していきました。

 主人は高校1年生の時の同級生で、26の時に「病気も含めて 結婚しよう」って言ってくれたんです。主人の舅と姑がすぐ近くに 住んでいますので、何かあるたびに、私、長男の嫁ですから走って 行かなければならない。冠婚葬祭、法事とか……、薬を飲みながら、 時間合わせて動かざるを得なかったんですね。で、主人は主人で企業戦士。 ハードな仕事でしたので疲れていて、「協力してほしい」と言うと 「しんどい」って言われて、私が動かざるを得ない。で、AS以外で 難病の友達がたくさんいるんですけれども、皆さん主婦で、協力の少ない 夫に「うらみ」を抱いています。本当に苦しい時に助けて貰うと一生の 「恩」になりますが、本当に苦しい時に助けて貰えないと一生の 「うらみ」になります。これは冗談ではありません。

 家事を協力してくれない主人が、たまに「お花見、連れて行ったろか」 とか「紅葉、見に行くか」とか声をかけてくれるんですけれども、 喜べない(期せずして、女性陣から拍手)。花見に行くんやったら、 近くのスーパーヘ行ってほしい、ゴミを出してほしい、大掃除をして ほしいって思うのは、私一人ではないようです。でも、私、そんな主人の 好意を喜べない自分が「情けないな」って思ったりもします。それって 何でしよう。私は寝たきりになった時に、主婦の仕事が出来なくなって、 ようやく自分の中の勝手に思い込んでいた「枠」が見えたんです。 「こうでなくては、いけない」という。

 よく演歌の中で「女は港で男は船、帰ってくるのを待っている」 なんて歌詞がありますけど、私の中に居心地の良い家庭を私が中心に なって作っていたい、また主人の港でいたいという気負いがありました。 主人もそれが良いと思っていました。でも、安らげる家庭は一人で 作れるものではありません。一人がくつろぐためにもう一人が我慢を 強いられるのはおかしいし、それは長続きしません。私は彼のお母さん ではない、妻である。ということを動けなくなってやっと判ったんです。 安らげる家庭は、お互いに言いたいことを伝えて、聞き合って、 話し合って、そういうコミニュケーションのある関係だと思いました。 私が動けなくなってから、彼も企業戦士としてしんどい思いをしていた んだということが判りました。心身ともに調子を崩すということもが ありました。彼の中でも、いろんな価値観が変わっていったのだと 思います。

 私は人工関節の手術をずっと考えていました。ためらう気持ちも ありました。今以上に悪くなったら、これ以上の痛みを背負って 生きられない……と思ってたことと、親に貰ったからだやから生まれた ままで死んでいきたい……とか思って。それを親に言うと、「かまへん、 かまへん、切り、切り」って言われて、何か複雑な気持ちだったんです。 で、私は背骨が一直線ですので、注射針が入らなくって、気管切開を して手術をしなければならない、人工関節の入れかえも楽ではないと、 いろいろ考えると頭の中ぐるぐるしまして、どうしても踏み切れない。 でも、本当に動けなくなって、それしか道がないっていうことと、 みんなが「生きろ生きろ」っていう方向で、私を応援してくれているって ことが、寝たきりの受け身になってよぉく判ったんですね。

 で、手術を受けようって気になりました。「車イスに座る事を考えて 下さい、立つ事はあきらめてください」と主治医に言われましたが、 立って歩く事が出来ました。「5年で、また、関節に骨ができて歩けなく なるだろう」って、言われたんですけど、今年で7年目に突入して、 何とか元気で動けています。病気は、どんなに抵抗しても進行して きました。もう生かされているのだから抵抗するのは止めようと、 まな板の上の鯉になった時から人生は大きく変わってきたと思います。 寝たきりになるまで私は、病気している自分が許せなかった。受け入れる 事ができなかった。自分の思うとおりになる自分や人生は「マル」(○) で、自分の思うとおりにならない自分や人生は「ペケ」(×)という 考え方は苦しいおかしいということに気がつきました。どんな状態に なっても、私は私の中で「マル」でなくては生きているのが苦しいと いうことに気がつきました。

 今、縁があって障害者の作業所にかかわっていますが、本当に世の中 って能率主義の世の中で、もっとゆっくりとそれぞれの個性を認めて 育てる教育や企業のシステムがあれば、もっと力が発揮できる障害者が 本当にいっぱいおります。しかしそれは、私自身が私のことを考える上 でも大事なことだと思います。私も、私自身をゆっくりじっくり見つめて、 動いていこうと思っています。そしてもう一つ、ずっと、自分のことを 自分で出来る、また自活出来るのが自立だと考えてきましたが、 たくさんの障害者が「それは違う」ということを生き様を通して教えて くれました。ボタンが一人でかけられない、トイレに行けない。でも、 私にしか出来ない事がある。私は、からだが動かなくても、人の手を 借りても、したい事をし、したいように生きる。そんな生きる事に 前向きな人達は、回りの人にまで勇気を与えてくれます。本当に 「自立出来た人」というのは、どんな状況においても自分を生かして いける人だと学びました。そのためには、声を出して自分の思いを いろんな人に伝えて協力を頼むことが必要です。やっぱり、 コミニュケーションは本当に大切です。精神科医がこう言っています。 「私達の所に来る患者さんの90%が、自分の回りの人と、しっかり コミニュケーションがとれていたら、ここに来なくていい人たちです」と。 コミニュケーションの中に“癒し”があります。

 今、主人は企業戦士をやめて、私とは別の障害者の作業所で 働いています。帰宅時間も早くて、今、私達夫婦は話をする時間が いっぱいあります。話しても話しても、話し足りないことが一杯あって 「おもしろいな」と思います。

 長々と話をしてまいりましたが、私が障害者になって学んだ、なによりも 大切な事をお伝えして終わりたいと思います。
 「動けなくなろうが、寝たきりになろうが、人の手を借りて生きようが、 人間としての尊厳が損なわれることはありません。すべて、そこから出発 しなくては、どんなプラス思考も気休め、ごまかしになってしまうのだと 思います」。ありがとうございました。


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