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《歸去來兮》
歸去來兮,田園將蕪胡不歸。
(歸去來兮辭 晉・陶靖節)
そもそも若宮にしてみれば、一年ぶりに挨拶でもできれば御の字というだけで。ここまで右往左往するとは思ってもみなかったのだ。
帰還一週間後に善行が伝えてきた住所は、どうやら仮のものだったらしい。マンションのドアの前、別人の表札を見つめて立ちすくんでから小一時間。やっと彼の勤務する支部に辿り着き、さらにその厚生課にたどり着くまで半時を要し、さらに受付後半時待たされたあげく、ようやく調べてもらったデータベース上での彼の勤務地は、おかしなことに熊本から更新されていなかった。
「すみません。ぜ……ぜんぎょう、とお読みするのかしら。善行少佐。この方、熊本学生連合へ出向扱いになっていますけれど」
「失礼ながら、それは去年の話かと。自分は少佐の元部下でして、熊本からお訪ねしてきた次第です」
あらまあ、と目を丸くして調べに出て行った女性は、薄暗い事務所の奥でもう一人制服姿の女性と話し始めた。生真面目な雰囲気が少し森に似ているなと思う。向こうの方が先輩らしく、整然と並んだ書類棚の一角を指さすと足早に去った。
「どうせ行くならサプライズにしないと!」などと子どもらに説得され、定期検診での上京を伝えなかった事を、数時間越し淡く後悔し続けている。七月の茹だるような午後の空気と、生まれて初めて地下鉄に乗り、勝手の分からぬ街を歩き回った時間は、さすがの若宮の足にさえ疲労という錘を加えはじめていた。
やがて分厚いファイルを手に戻って来た女性に、
「珍しいお名前でよかったですね。去年から二回、お引っ越しされて……、これです、これが一番新しい住所」
そう示された住所を、若宮は紙とペンを拝借して書き取った。
結晶経由のメールを送って返事がなかった以上、打つ手は非常に限られた。帰りの電車の時間もある。ここで駄目なら諦めよう。今回は運がなかったと思うことだ。
そう心に決めた若宮の眼前に、板塀と常緑樹の茂みにすっぽり囲まれて、目指す集合住宅は建っていた。熊本でも彼は、いったいどんな伝手で探したのかと呆れるほど老朽したアパートに住んでいたが、ここも良い勝負だ。クリーム色の壁には補修のあとが蜘蛛の巣のように這い回り、庇の裏側からはベニヤの皮部分が剥けて垂れ下がっている。
正面玄関は開け放されており、薄暗い奥の部屋からはテレビコマーシャルらしきアップテンポの曲に紛れ、複数の人間が言い交わす声が聞こえている。どうやらこの地では、建物が古かろうが住み手はいくらでも見つかるようだ。いや、むしろ疎開民がひしめいているというべきか。
引き戸の脇には小振りの笹飾りが立てられている。子どもの手によるらしい奔放なデザインの短冊が数枚、ぴくりとも動かない空気の中、それぞれの願い事を裏に隠して下がっていた。
そういえば、今日は七夕だったな、と思い出す。五一二一小隊においても東原戦士の指揮の下、同じような飾りが作られていたはずだ。
ここから入って良いものか、と悩んでいたところに外付けの階段を見つけ、若宮は、赤錆の浮いた階段を登っていった。
登り切った正面、入道雲の子どもが二つ浮かぶ空を背景に、先ほど訪れた役所のビルが見えた。一面に張られたガラスがキラキラと陽光をはじいている。そう、あの双子ビルのどちらかだったはずだ。足元は典型的な下町らしく、これでもかという数の住宅が密集している。
非常時規定と善行の性格からして、勤務先から徒歩圏内に住んでいるのは間違いない。少なくとも、この目に映る風景のどこかに、自分がいまここに居ることは露ほども知らずに。
目指す部屋の部屋番号は確認できたものの、表札の黄ばんだプラスチックには何も書かれていなかった。早速チャイムを押すが、断線しているのか、鳴っていない。郵便受けに何もない、ということは誰か住んではいるらしい。
「善行……少佐?」
抑えめに声を掛けてみる。返事はない。さらに一度。
「少佐!」
くそ。
「ミスター?」
二度繰り返した後、返事のなさに苛立ち思わず扉を叩く。
すると鍵がかかっていなかったらしい扉は、ふらふらとこちら側に開いた。
ままよ、と指を突っ込むと隙間は一〇センチほどでドアチェーンに阻まれて止まった。片目で覗いてみると、手前の玄関は暗く何も見えない。視線を上げて、二つダンボール箱の置かれた板の間、畳敷きの部屋、最後に窓のサッシが見えた。畳と箱以外、丁度品は家具もカーテンも一切見当たらない。
誰も住んでいないようだ。ここも越した後か。
頭を振って、さらにずっしりと見えない錘を増やした足を帰途へ向け、一歩踏み出した、その前を黒い影が横切った。ニャア、と猫にしては声量のある……おや、と足を止めた時点ですでに本体は角を曲がって階段を下り去り、根本から二本に別れた尾の残像だけが若宮の網膜に残された。
と、目の前の壁から白い腕が生えてきた……いやいや、格子の付いた小窓から、よく見覚えた火傷の跡に加え、たくさんのひっかき傷をつけた前腕が延びて行く手を遮っている。
「戦士。貴方、人の部屋の前で、なに騒いでいるんです」
「少佐!」
咄嗟に駆け寄り覗き込むと、腕はしっしと払う仕草をした。
「ここ、トイレです」
それは失礼しましたと、目を逸らしつつ、やっと見つけたという安堵感はもちろんだが、タイミングがいいのか悪いのか微妙に喜びにくいな、と思わず深く息をつく。やがて扉を開けて出てきた善行も、さすがに水洗音が流れる横で苦笑いを隠さなかった。
「貴方ね、ご近所迷惑ですよ。それに呼ぶに事欠いて。……今さらミスターはないでしょう」
「少佐が見つからないからです。転居されているとは、誰も、知りませんでした」
「何を言ってるんです。僕はちゃんと伝えましたよ……いや、」
何かに思い当たったらしい善行の表情はみるみる曇ったが、やがて、きれいに剃られた顎に指を添えながら、取り繕うように切り出した。
「ところで、ハンニバルの声がしませんでしたか」
「では、先ほどの黒いのは……」
階段の方を指差し教えると、善行は格闘の跡とおぼしき血の滲む傷が無数についた両腕を、だらりと下げた。
「逃がしましたね。ああ、また当分帰ってきませんね……」
「申し訳ございません。探しに参りましょう」
「……いや、いいですよ。あれたちはどうせ、日本全国どこにでも行くし、戻っても来るんですよ。たぶんね」
猫は嫌いだというわりに猫かわいがりするのが善行という男の不思議な一面だが、その彼は意外と淡泊に言ってのけた。
そうだ。彼はあの安アパートに二匹を残し、若宮に世話を託して行ったはずだった。しかし数日後には行方知れずとなり、泡を食って連絡したものの、彼からの返信は一向になく……そして今に至る。
それにしても、あいつ……。若宮の内側に心配したのと同量の腹立たしさが沸き上がる。
「ところで、この部屋はまた越されるのですか」
部屋に戻って、善行は猫の入っていたらしいダンボールをつぶしながら、ええ、……と曖昧に答えたあとで、我に返ったように若宮を振り返った。
晴れ晴れと、
「帰るんですよ」
まるで晴れ晴れと笑う。
「僕の帰るべき場所は、今、どこよりも、あそこだと思いませんか」
若宮は釣られて歯を見せながら、ただ頷いた。
何処へ、などと口にすることは、ここではあまりにも、愚問だった。
《劇終》
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★20080707 七夕記念(のはず。)コッソリ続く(はず。)