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《一年》



 日出前、極微弱な軟風に這う様に沖から流されて来る霧の退く気配は未だみえない。波音さえなければ浜と気付かないほど視界は限られて、護衛を任じる若宮の神経がどこか焦れるのはこのためだ。来し方を振り返ればそちらは防砂林が黒々と固まり合って尚薄暗く、存在を主張するのみである。
 それでも海が好きだと常々語る青年士官はそこそこ満足そうに歩を進めると、白い砂の湿って黒く色を変える辺りに踵を揃えて立った。

「早いものですな」
 若宮が切り出すと善行は、水平線の横たわるとおぼしき方角から振り向いた。眼鏡が邪魔をして表情は定かでない。
「我々が上陸して、ちょうど一年です」
 体の向きを元に戻した彼から、そうですね、と小さく返事があった。

 わざわざ言葉にするまでもなかった。双方が同じ事を考えていたに違いなかった。
 しかしもし、自分が何も言わずにいたならば。きっと彼は貝のように口を閉ざしたまま、次第に色を濃く変えてゆく度のないレンズの奥から、ただ目前の風景を眺めていたに違いない。若宮は確信に近くそう感じた。
 かつての善行は、決してこうした人物ではなかったという気もするのだが。


「もう、そんなに経ちましたか」
 ややあって善行は低く、己に問うような調子で言った。野戦服の胸ポケットからバットを出すと、長い時間をかけ、耐水マッチで火を点ける。

 若宮とて別に、指折り数えていたわけではない。
 昨晩床について遠く聞こえる轟に海の近い事を知った、その時でさえも、輸送船上で噛み締めたどうしようもない焦燥と、接岸して揺れない大地に立った時の安堵を思い出しただけで、あれしきのことと嘯いて寝入った。
 気付いたのは定刻より一時間以上早く目覚めた、今朝になっての事である。
 それでも寝所から消えた上官を探し歩き兵営の仮設門で斯く行き合う時点ではすでに、説明の必要は一切ないと言う弁えた顔を百パーセント完璧に作り上げていた、これは自分にしては大いに気が利いていた方だと若宮は考えた。



*****

 海上に曙陽が兆して来た。
 世界が灰白色を帯びはじめる中を、善行は夜の残した影のように立っている。口許を軽く覆った絆創膏の巻かれた二指の間から、細く煙が立ち上っては朝靄の中に溶けた。
 若宮はその横顔を厳しく点検して、昨日までもーーいや、いつからーーこう胸に迫るほど痩せていただろうか、と考えた。

 贔屓目というわけでなく、よくやっていると思う。
 古参も含めた一隊の兵が、尊崇と畏敬の念を隠そうとしない。たかが二十歳そこそこの新品少尉相手にだ。この一点が何より善行の正しさを顕している。
 よくやっている、見違えるようだ。
 連れてこられた彼を一瞥して、教育官という任に不安が過ったのが約一年半前。無理もない。当時の善行ときたら過去に担当したどの士官候補より貧弱で、だらしなく、ただの大学生だった。全くなっちゃいなかったのだ。
 
 
 つまり、その時自分は化かされていたのだ、と若宮は知らず目を眇めた。
 善行自身がよく自己を辛辣に評する通り、いざその位置に填めてみれば彼は群を抜いて優秀な軍人だった。着任の瞬間から上官然として、紛れもない将帥の資質を見せつけたものだ。何事につけ淡白な彼は権力志向にはほど遠く、体制にも懐疑的な発言が多かったが、ただ教官を数年勤めて若宮が学んだこととして、生まれる時代を間違えたと哀れを誘うほどに軍人には死んでもなれない人種が確かにいるものだが、善行はその類いとは違っていた。明らかに違ったのである。
 更に多分に生まれもっての性質なのだろうが、茫洋としてつかみ所のない、それでいて柔弱なところの欠片もない物腰は当初から相手を選ばず不変であって、この人物をひとたび読み損なえば最期、どこまでも化かされて知らず死地へ落とされるものと、もし訓練時代からの付き合いがなかったならばそれこそ己の下士官としての感覚は日々ざわめいたに違いない。

 それでこそ、と若宮は思う。
 狐狸。軍人という商売の本質は結局そこにあるのだった。



*****

 ふと我に帰った若宮は、そこまで一切を善行に見られていた事に気付いた。ただしこちらを向いた面にはいかなる感情も強く出てはおらず平穏そのもので、ただ手持ち無沙汰に顎の辺りを触っている。指先に儚い生を全うした煙草は既に跡形もなく、大方携帯灰皿にでも押し込まれた後だろう。

 咳払いを一つして若宮は尋ねた。
「そういえば最近、あの猫を見ませんが。」
「さあ、何処でどうしているのやら。僕が思うに寒い所が嫌いなのではありませんか」
 真顔で答えるところが少し可笑しい。
「それでは今年も役に立ちませんなぁ」
「猫なんて。何の役に立つんです?」
「就寝時にです、アンカ代わりになるかと思ったのですが」
 全部聞かないうちから善行は声をあげて笑った。
「それは・・・かわいそうだが確かに。言われてみれば惜しいな。ここもすぐ、寒くなるでしょうからね」

 昨年、半島で迎えた初めての冬。いきなり叩き込まれた激戦地での露営、暖房はおろか焚く柴すら容易に手に出来なかった。暖を取るには不味い合成酒を飲むより外なく、飲めば二十指のしもやけが疼いて眠れない。全く最悪の冬であった。たださえ傷だらけの指先を見遣った善行も、同様の痛痒さをそこに蘇らせたに違いない。

 その冬を、そして春夏秋を。
 気がつけば自分達はこの地で一年を越えていた。どうにか生き延びたというわけだった。




*****

 十数分の帰途をなぜか黙り込んだまま辿った。もうじき営舎に帰り着くと言う頃になって、ところが、半歩前を歩いていた善行が思い出したように足を止めて告げた。
「今朝は、つき合わせて悪かったですね」
 振り返った上司と正面で向き合う形になった若宮は自然、鯱張って答えた。
「つき合わせたなどと。とんでもありません。それにですな、」
「?」
「自分もちょうど、海が見たいと思ったところでありました」
「そうですか。・・・それはよかった。」
 若宮の率直な口振りに、善行は心から安心したという声を出して続けた。
「ではまた・・・ここでとは言いません、どこでもいいですから。また来年もつき合って下さい。」
 心持ち唇の両端を上げ気味にして、手を伸ばして来て、内心驚いた若宮は避ける間もなく肩のあたりを叩かれた。
「ねえ、戦士。頼みましたよ」 


 では後刻、と明朗に告げて善行は再び歩き出した。門のところで歩哨の兵に敬礼されて答礼し、そして幕舎に向け去って行く。
 若宮はその間中、上辺だけでなく文字通りの意味を最大に含んだ敬礼で小気味良く伸ばされた背中を見送った。だが、細長い影が視界から消えるとやがて表情を崩し、苦笑いを作った。

 全く敵わない、と思っていた。
 自身がいつ必死を命じるとも知れぬ相手に、言外でと言うにはあまりにもあからさまな態度で、生きろと命じて行ったのだ。
 −−−そうだ、貴方はそれでいい。
 若宮はひとり頷くと、白い歯を誰に見せるでもなく僅かに覗かせた。


 一人前の士官、まして一隊を預かる身では当然のこと、部下の前での一挙手一投足さえも狐や狸がみせる一流の化かしの芸当に過ぎない、そうあらねばならぬと教えたのは他でもなく自分であった。そして交戦の度に目に見えて痩せようが、采配を揮う声が時に自分にだけ判る幅で震えようがーーー、そのあたりにさえ目をつぶれば善行は何処へ出しても恥ずかしくない教え子であり、自分の教えを忠実に守っていると若宮は信じてきていた。

 だから先刻の一見余りにも楽天的で無神経極まる物言いも、さらには彼の挙動、肩を叩くなどという部下に対して気軽過ぎるそれも、勤務時間外でもあるし今度だけは目こぼししてやろうということにする。一方で、叩かれたと同時に己の内側に転がり出た心情や、肩の辺りが今も妙に温かい感じがする理由については、早々に考えることを放棄した。考え出してはきりがなさそうだった。




*****

 澄み渡る晩秋の空の下、日の出を迎えて兵営は俄に活気を取り戻しつつある。若宮は人間の 生活が聞こえはじめた方向へ歩きながら、過ぎた一年という月日を思った。
 何もかもが目まぐるしく遷り変わったようでもあり、永劫同じ日が続くかと思われることもあった。ただひとつ言えることは、嗚咽と嘔吐を誘うのみならず人一人の思想や生き方まで変えてしまうほどの光景が、この地では連日いたるところで現出していたということだ。
 
 善行はその中で見るからに顔つきも声音も、気配さえ変わった。
 なにより小隊数名の死者が、味方の顔をした奸細の敵と顔という器官に意味を持たない異類の敵が、そして老若も国籍も軍人民間人の別もなくただこの地上に不要だと叩きつけでもしたように引き千切れ、ばら撒かれ、或は小山のように積み上げられて待っていた屍の山がーーー、いつしか彼を容赦ない実行の人としたのだった。

 いざその秋となれば善行は、先ず生きる事だと事ある毎に主張して憚らない口先を拭いもせずに、例の底を見せない涼しい顔で、小隊四十名各々に相応しい死に場所を示すだろう。そんな真似ができるはずがないと頑張っては殴られていた頃と皮肉にもどこか似通った所のある頑な眼差しで。
 もちろん彼は若宮にも、教育官に回された時点で一度は断念したはずの戦闘用としての本意、戦いの末での最期を、確と与えて寄越すに違いない。いつかーーーそう遠くない、いつかに。自身に依怙贔屓や一時の感傷で大事を誤る士官を育てた覚えの無い以上、間違いのあろうはずはなかった。
 いざ死ぬ段になって家族も親類も持たない自分にとって唯一身近なその人の愁嘆場を想って憂慮したり躊躇する懸念のないのは誠に気が軽く有り難いことだ。そう己に独善を承知で言い聞かせるのが習慣になったのは、一体いつ頃からだったかーーー。
 



 若宮は突然片手を上げると、前髪を乱暴に梳いた。まさかと思いながら。

 では、なぜあの時自分は「また来年」などと?
 実は危うく口に出しそうになっていた、自覚はあった。
 それどころか一年後生きていればまた望む気がした。また来年も、と。
 よりによって、この自分が。

 無意識に固く結んでいた口元から、うーんと唸り声が洩れた。
 いつの間に、ずいぶん執着したものだと、呆れ果てたのだった。




*****

 かくして世にも難しい顔になった若宮は、しばらく経って責任転嫁に転じた。

“まったくあの人でなしの上官は、無茶な要求ばかり多過ぎる”。
 まったく、まったくだと思う。

 そして大いに自分に同情した若宮が、次に本気で頭を悩ませはじめたのはつまり、件の酷寒をどう凌ぐか、当面はそちらの方が相当深刻だと思い出したのだった。




《劇終》


★GPM取扱開始一周年記念SS、のハズが。20031219 ASIA

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