[BACK]
《リップクリーム・2》
雪が降った。
朝から晩まで休むことなく降った。
しかし季節は初春。
街路樹の根元や車のボンネットを薄く蔽っただけで終った。
「こんな時期にまた雪とは、驚きましたな」
「そうですね」
濡れたアスファルトの上を、善行と若宮は並んで歩いていた。
とうに日没を過ぎていたが、乳白色の雲が垂れ込め、世界は奇妙に明るかった。
*****
小さな公園に差し掛かる。若宮が善行に尋ねた。
「そういえば。この前はここで、何を考えてらしたんです?」
「・・・・・・・・」
善行は緩いスロープになった入口から敷地に入っていった。数歩遅れて若宮も従う。二足の軍靴の下で芝生と砂利が半々の地面がじゃらじゃら鳴った。
数日前とほぼ違わぬ位置に立つと、善行は電灯の青白い光を見上げ、答えた。
「たいした事じゃありません。電力の供給が未だに止まっていないのは奇跡に近いとか、いつまで続くだろうとか、そんな事ですが・・それが何か?」
「いえ、別に」
答えた善行の位置からは、若宮の顔は見えなかった。
若宮は善行に歩み寄ると、手にした傘を差しかけた。もう一方の手で肩の雪片を払ってやる。善行は眼鏡を外すと、レンズについていた水滴を拭って、戻した。おもむろに口を開く。
「あの時・・・、この灯が消える時が終わりだと、そんな気がしました。僕たちが負ければその日から、夜は真の闇に覆われるのだろう、と」
傘越しに、頭上を仰ぐ。
「でも・・・、たとえこの地から人類がいなくなったとしても。今日のように明るい夜もある。この先、いくらでもあるでしょうね」
穏やかな声は戦場での苛烈峻厳を微塵も窺わせなかった。
六花を含んで光る大気の中へ溶けていくようだった。
*****
「やはり、思った通りです。あなたは悲観的すぎます」
若宮は言って片眉を吊り上げた。
「すいません。気が弱くなっていたようです」
「そのようですな。かりにも部下の前で、士官にあるまじき発言です。これでは・・・」
善行はかつての教育係の日に焼けた顔を見つめた。
「懲罰、・・・ですか?」
「はいミスター、仰る通りです。さしあたっては、フルマラソン。それに腕立て300、懸垂100。2セットで十分です」
冗談ではないようだった。科料した口調は教育下士官としての威厳に溢れており、有無を言わせぬ迫力があった。善行は諦めと微かな喜びをたたえた目になると、予備士官時代に何度となく繰り返した仕草で首を振った。
「軽く言ってくれますね。・・・まあいい。寝酒代わりにはなるでしょう」
しかし、いざ善行がコートを脱ごうとすると、若宮の手が止めに入った。
「ですが、この天気です。司令にカゼでもひかれては、隊の士気にかかわります」
「ではどうしろと?」
襟元のボタンに手をかけたまま唸った善行に若宮は提案した。
「特例ですが、減免できないこともありません」
「そうして貰えれば、助かるが」
「ただし条件が」
そこで若宮は策士の顔になった。目が笑っている。
「欲しいものがあります」
「なにが減免だ。贈賄の強要じゃないか?」
「はい。簡単に言えばそういうことです」
悪びれない笑みを前に、善行は苦虫を噛み潰し。
「・・・わかりました。聞くだけ聞きましょう」
結局、白旗をあげた。
*****
「これを下さい」
若宮は善行の左ポケットに手を入れると、何か取り出した。
いつぞやのリップクリーム。
「こんなものを?・・・かまいませんが。たいして残っていませんよ?」
若宮は手の中の円筒を確認した。“グリーンアップルミント“と手書き風の文字が踊っている上にイラスト入り。戦時下でなければ、十代の女学生しか持たないような代物だ。
「リンゴですか。どうりで美味そうだと思いました」
若宮が感心して頷いたのを見て、善行はきまり悪げに説明した。
「念のため言っておきますが。他に売っていなかったんですよ。だから仕方なく・・・」
みなまで言わせなかった。
若宮は傘を地面に捨てると善行の肩を抱き寄せた。
「やめなさい・・・人が見たら」
顎に手をかけて仰向かせると声をあげたので、手の平で口を塞いで黙らせた。
腕力の差を自覚している善行は、それ以上は抵抗しなかった。ただしその差を眼差しで埋めようとする。薄茶の瞳がぶつけてくる凛冽な視線を若宮は、口にあてた手をずらし、眼鏡ごと蔽って遮った。
視界を奪ったままで、リップクリームを塗りはじめる。
一往復。もう一往復。血の色をほとんど感じさせない薄い唇に塗りたくる。
引き結ばれていた善行の口許が、僅かに弛みはじめた。
やがて残り少なくなっていたクリームが軸から外れた。それでも若宮は、指先で欠片を集めて触れ続け、塗る事を止めなかった。終いには、残った小片を善行の口に押し込む。
吐息が漏らされ、薄荷の香が仄かに漂った。
若宮が目隠しした手を離してみると、善行は目蓋を閉じていた。
きつく眉を寄せ、睫毛を震わせていた。
「これを下さい」
若宮はもう一度だけ言うと、眼前の唇に唇を押しつけた。
《劇終》
[BACK]