《優駿》



「・・・いないのな」
赤毛のオペレーターが誰にともなく呟いた声が、いささかの振動も騒音もなく草の原の縁に停止した指揮車の中、軽い陰鬱さを帯びて響いた。

阿蘇、午前六時。
東の空こそ薄明の青白さを仄かに含むものの予報によれば本日は曇り時々雨、カルデラ上を覆い尽くした雲は噴煙を交えてか墨にたっぷり浸した綿の色をして外周の稜線の上に畝をなし長々と横たわっている。ほんの数歩も先行した人型戦車の姿は椀状になった底を藹々と満たした白霧の帳に遮られ、遥かに蒼く透かし見えるか見えないかという曖昧さの中にあった。

「何がです」
窓がなくレーダーからの情報が全てである車両の中央に位置する司令席とは名ばかりの梯子の一段に寄りかかり、瀬戸口から二秒遅れで全方位画像を受け取り終えた善行忠孝は運転手の任に有る加藤十翼長に待機の指示を出したあとで先の言葉に質問で返した。
やり取りと呼ぶには嫌味なほどの隙間と指定席に有って殆ど無駄口をきかない善行の常の有り様から不意を打たれた瀬戸口百翼長は意外さを吊上げた眉と多めに瞬く瞼で示しながら答えるはめになったのだった。
「馬ですよ。肥の国は大阿蘇、艸千里ってね」
「駒あそぶ高原の牧、でしたか。なるほど確かに」
 善行がやや尻上りに答えると、後を継いだ声があった。
「うまさんたちは、」
「ののみ?」
 零れ落ちそうな栗色の瞳に眼前の計器の明滅を映し出しながら、
「げんじゅうがきて、ひとがきて、やまも、はらっぱも、いたい、かなしい、おとと、においで、」
 少女の幼く辿々しく拙く告げる声に車内が静まり返った。
「いっぱいになったから、だからね、」
「東原・・さ・・・ん」
 銃手席から不安気な気遣いの声が下りてきて東原ののみは小さく微笑んだ。
「だいじょうぶなのよ。うまさんたちは、かえってくるんだって。てんがおち、ちがさけようとも、だって」
「そうか、だいじょうぶか。よし、じゃあ泣くんじゃないぞ」
瀬戸口が手を伸ばし、真後ろの席の明るい色のリボンのふわふわ踊る小さな頭を何度も撫でた。






その夜、陳腐なドキュメンタリー仕立てのニュースの断片が善行の耳に飛び込んでそれなりの居場所を確保したのは、この朝の会話から、百年後も立っていようと謡われた動物たちの忽然とした行方不明にどこか割り切れなさを引きずっていたからかも知れなかった。

「去る十四日未明、九十年廃止された大統領杯優駿賞優勝馬のーーーーー号が腸捻転のため死亡しました。日本におけるサラブレッドの歴史は間もなく終焉を迎えることになるでしょう」

Thoroughbred。徹底的なる血、という物騒な名を冠された走るだけしか能の無い草食動物は、元は英国三頭の有象無象なる牡馬から発したものが、スポーツと賭博の道具として認められるや欧米豪中近東までの王侯貴族の興味関心を席巻、改良に継ぐ改良を重ねられ名称どおり血を存在価値の一義とされ現代に到る。
我が国には百年ほど前に渡り来た彼らは、渡来品なら何なりともてはやす時代の軽佻から殿様の玩具に数えられしばし幽囚の日々を託った後、強兵主義の横行とともに正規の評価を得て需要も拡大、晴れて幕府高官の誇るべき動産の一部となった。同時に列強に右へナラエではじまった権勢顕示のための能力検定競争は国民にも現実的な娯楽を提供、大統領所有馬の凄まじい勝ちッぷりこそ戦意高揚に多少の貢献もしたものだろうが、二次大戦から幻獣の出現こっちは人の生活さえままならぬ時勢にお馬さまもないだろうと繁殖規模も随時縮小、衰退を余儀なくされた。
加えてここ二十年の戦争の激化とクローン世代の誕生に到っては、賭博という需要の質から遺伝子操作の聖域とされ最も自然に近い家畜との皮肉極まる代名詞に甘んじて細々と繋養されてきたはずが、種としての成立経過があまりに轍を踏むと見せ不愉快怪しからぬ、と人権擁護団体の追及厳しく槍玉に上がる始末。ついに動物愛護精神の歴史と伝統隠れなき米国より待ったが掛かり一時は万事収まると見えたものの、輸送船の一艦残らず撃沈されるという非情の結末、かくて走る宝石と呼ばれた高貴の輩は僅か数頭を残し悉く海の藻屑と成り果てた。今また最後の牡馬が儚くなるに及んで、この島国に於ける彼等の歴史は一世紀を待たずして幕を引く・・・というのが番組の大要。

半分ほどは聞き流しながら、あの優美な生き物がどんな理由にせよ間直に見られなくなるのは悲しい事だと善行は思った。日常一切関わりは無かったとて、円らな黒目を並べた茶白黒だのの毛皮の下に筋肉の束をまとった推進力の塊のような生き物が目覚しく美しいと思わぬほどの朴念仁ではない、つもりだ。
だが所詮は一ニュースへの感想に留まるのも事実、金銀の盾や賜杯からレイに馬服、献花果物、千羽鶴までもが未だ臨終の床を空しく飾る映像には素朴な哀情を掻立てられる反面、悲劇性をことさら煽ろうとの番組の制作意図の透け具合には正直虫唾が走りもした。


ところが手洗いに立って戻るや先より一歩近い位置、ほとんど密接して腰を下ろしていた若宮の手が、ゆっくり伸びて来ると久しぶりに紐解いていた戦史を取り上げた。何事かと視線をあげると若宮のそれはブラウン管の方に向いていて、およそ軍事以外の新報には無関心だと感じていた彼の予想外の熱心に善行は内心で首を傾げた。

血脈最後の英雄が仆れた原因は一年前、種付けの際の転倒という。後肢骨折、予後不良のところをかつてトキ、ヤマネコ、その他いくらかの国産無双の昆虫が辿った絶滅の二文字を回避すべく、ギプスにレーザー温泉治療まで施して丹精こめた闘病生活、だが爪先に忍び寄る壊疽と敗血、更にこの動物の繊細極まりない神経はこらえ性無く内臓を痛め、かくて全ての甲斐甲斐しい努力は運命の前にふいになったという次第。
映し出される病葉の姿はといえば黒目勝ちの黒目は濁って生気なく、呼吸と嚥下は充血した鼻腔から下がるチューブに頼りきり、断末魔を思わせる形に開いた口から漏れる喘鳴の凄まじさ。往時は半トンを誇った雄大な身体を立つも叶わず座るもままならず宙に吊り下げられた、生物とはもはや見えない骨と皮。

「これは、かえって惨い気がしますね」
「エゴですな、人の。しかし本人の意見は聞きようがないですからな。いやしかし、聞けたとして、生かせとしか言わぬかもしれませんが、畜生は」
「さあ。ただどちらにせよ判断するのは持ち主なんでしょう」
「この点、自分らは幸せです。こうして口がきけるだけでも」
この時間この部屋へ招き入れているところの若宮相手に会話する事は善行にとって禅問答に近い心労を伴うのだが、知ってか知らずか今日の若宮は堰を切って饒舌だった。
「軍用には多い診断です。予後不良とは」
「そうかも知れませんね」
「よろしいですか、その時は」
貴方が引金を、とやや早口になった声が思いがけぬ近さで囁いたかと思うと肘のあたりに掴み掛かった厚みのある湿った手の平が長躯の下にさっさと身体を敷き込んだ、と同時にシャツの裾へと潜りこんで這い上がり左肩から下げているシグ・ザウエルに絡み付きそのまま銃帯を器用に外す指、
「二度、ですよ」
「いやだと言ったら。あのように生き恥晒せと、僕が言ったらどうします」
金色に染め分けられた前髪に指をかけると善行は手加減など一切せずに若宮の顔を己のそれまで引き付けた。語尾が揺れたのを誤魔化すつもりだったのは悟られているのだろうが。設定年齢を遥かに凌駕して見える落ち着き払った笑みを口の端に刷いて若宮は空いていた左手で善行の両眼を軽く塞ぎ、色のつきはじめた息を吐く唇をそっと食んだ。
「この、口が、心にも無い事を言わんで下さい。それに代価ならいくらでも前払いして差し上げますから」
目隠しが外れて間近に据えられていた、もの欲しさをてらてらとちらつかせる肉感的な唇と反比例に見つめてくる虹彩のコントラストも鮮やかな黄金色の瞳が射抜くように真剣極まりないのに気を抜かれた間にも、いつしか要所要所の釦が外されていて気付いた頃には既に相当な形勢不利、強引に押し入られた掌に包み込まれ期待を示しつつある形をなぞられるにいたって善行は悲鳴じみた声を漏らすまいと喉の奥で押し殺しながら今日のところはこちらの不戦敗、後の祭と観念した。
「なんです、その、代価とは?」
「ここに」
ついに後ろまで届いた指が痛みを伴って格好の角度で抉り込まれる。
「合いませんね」
引き攣れる感覚にあらいざらい攫い取られる直前、目に止まったのは緑滴る牧、首を高く掲げた優駿の在りし日の姿。
いや、銅像を見誤ったものか?
確認せずに終わった。






許した覚えもなく根元まで埋められていた芯が滑稽と以外形容し難い粘性の音を立てて引き抜かれる。甘美なささくれを毟り余韻をこそいで通り過ぎる摩擦熱、脚に纏わりつく下着と倦怠、乾燥と痛痒。矢継ぎ早に畳み掛ける知覚に善行は閉口した。
首筋を舐め上げられてそちら側へ顔を振り向けると、直ぐ後ろで待ち構えていた顎が頬だの耳だのに性急さ丸出しで噛み付いてきて血が出ない程度にとはいえ歯型ぐらいついただろう、そうして集中を欠いた一瞬の内にも愈々胸の中に引き寄せられて一方的な玩弄を好まない性格を百も二百も承知の男の舌が口腔を押し広げ体中で最も敏感な組織を食いちぎる勢いで吸い続けるので、意識は沸騰し四肢からは力を奪われ頼りない浮遊と滑落の合間、せめて厭がらせに覚めた視線でも据えてやろうと必死の努力も敢無く白目を剥くか泡でも吹くかという体力の低下著しき己への深い失望、一人前の成人男性としてたかがセックスで人事不省は勘弁願いたいと土俵際に踏んばり辛うじて我に返る。
と、濡れに濡れた口元が鼻の先から雫を引いて離れ、小馬鹿にしたようでもあり自虐とも取れる複雑な形でそっけなく言い切った。
「まるで犬ですな」
好きなくせに、と悪態の一つも口を突いて出そうになって、獣じみた性癖は元からのプリントなのか、それともどこかで卑猥なビデオでも見て覚えたのだろうか、と詮無い詮議の念を起こしてみるが、どちらの下卑た可能性にしても肯定されては面白くないので善行は口を噤んだ。



種付け、などというそれこそ猥褻か?と疑問符のつく言葉の響きだけでも下半身の疼きを鬱々として訴えてくる他愛なさは、ある意味十七歳という設定に忠実なのだろう。
善行とて自分のその年頃を思えば甘酸っぱい懐かしさに加え乱脈とは言い過ぎとしても土下座してでも構って貰えればそれはそれ、矜持やプライドを持ち出すには男は女々し過ぎ女は勇まし過ぎるこの世の中、傷つこうが壊れようが喉元過ぎればなんとやら。道徳だの倫理だのと大上段に構えたところでしょせんはクローンとキャッチコピーのつきまとう異形世代の端くれとして快を求める率直さには心当たりが有り過ぎた。
手を繋ぎ指触れあって頬染める初々しさこそ毛ほどもないとして、取っ組み合い乗りかかり合えば流石に血の通った相手の生身の気配、軋み傷むほど擦りつけ合う間に火が点き煙が立つとて木石ならぬ身の道理、交し合う体液に融け出す手前勝手なまごころと思いやり。性欲とは生欲征欲精欲であって人はパンによって生くるにあらずこれによって生くるなりともっともらしい講釈を垂れながら聖人君子とは相容れぬ不浄の身の上、時にもの狂おしく人恋しくなることもあって当然で。
それをそう訴えたのが運のつき、可及的速やかかつ秘匿の上に場所から向きから腰への負担、明後日の筋肉痛まで考慮して組み敷かれ、男女構成比においてのみ辛うじて男性の面目潰さずに済んでいる集団によって、老婆心でか保身のためか版に押されたのか教本に書かれているのか聞きたくもないし知る由もないが凸同士での所作立ち居振る舞いαからωまで呆れるほど熟知していて、一見型に沿った愛撫に辟易したのはほんの宵の口、体力あてに絶体絶命まで追い上げられほぼ半日喚かされた身としては以後は屠殺場に曳かれ行く牛馬の従順さ、選択の余地なく引き回され今に至る。

ましてこの珍妙極まりない職場、馴染みようもない部下改めクラスメイト、その間で跳んだり跳ねたり半ズボンの恥ずかしさなど目で見て判断つく部分はまだいい、覚悟のカの字も知らないゆうに一回りは下の少年少女の青い尻せっついて遺書を書かせるのが仕事と言う重苦しい胃の痛み。
勿論ここで負けてやる気は更々ないが、嘘どころか脅し賺しも吐き出して使えるものはーーでも使い、それでも勝算はあって五分が関の山という体たらく。
捨鉢というわけでは断じてない。ないとして、せめてストレス軽減くらいは。許されてしかるべきだろう?



「犬じゃない、馬ですよ。馬だ、馬」
敢行時の苦痛を思えばむしろ緊縮して当然の部位を準備の名目で軍隊用語でよりは一般的な意味での適当さで弄くられ過敏な内壁に過剰な摩擦を与える事で湿らせ滑らせ脚を開いて受け入れさせられ、あろうことかそれだけで達するコツを掴み切っている現状は、極めて常識人という判断を自己に下している身として不本意を通り越して不興だった。
輪を掛けてこの体位は衝動を優先し人格に後足で砂でもかけるようで、犯とか姦とかいう漢字の字面からすらうっすら立ち上る背徳と凶行の臭いが紛々とし、合意の上とはとても思われぬ気がして積極的には認め難い、要はいけ好かないのだが。
しかし実際問題、遺伝子レベルで高めた闘争本能のちょっとやそっと慰めたところで収まりきらぬ余波を互いに互いを喰い込ませ荒らす行為など勿論進化の過程で想定されたわけではなかろうが、ヒトとは四つ足の獣のなれの果てであり肝心な器官の構造的にも偶然にして合理的、人体はそのように出来ているのだと実地を元に霊長類らしい学習能力を遺憾なく発揮、即ち翌日多少なりとも楽なのは事実なので黙っている。

「まさか、自分が馬面だなどと?」
「そうじゃありませんよ、いや、」
体躯に相応しい逞しさに固さと熱を湛えた彼自身は、それに恒常的に肉欲の処理を依存している身としてはともかく、同性としては引け目を覚えて目を逸らしたいほど見事なもので、手を這わせると圧倒的な質量に我が触覚を疑う。
まったく、馬じゃないか。
「何を笑っているんです、気色悪い」
低く問い掛けてきた男の、己の不恰好なそれより一回りも大きく均整のとれた手が腹に回ったかと思うと突き転ばされ裏返されて、今度は堂々と正面きって腰骨に掴みかかられたのを下目使いに見ながら善行は唇を眼前の金髪の中へ埋めた。






肩を掴んでこれ以上に身体を身体に引き寄せようとしている大きな手に触れてみると、張り詰めた筋、案外細やかな造りの爪先、黄金比に拠って造られたとしか思われない直線と曲線、節々の絶妙なバランスに溜め息さえ漏れた。粋を凝らした設計に沿い忠実に育まれた、花も実もある、美としか呼べぬもの。蜜に群がる虫のごと惹きつけられ、止むに止まれぬ衝動のまま、後悔を覚悟で関係を求めたのは、どちらかといえば確かに自分だと善行は思っている。

その手によって胸や脾腹を撫でられ指爪の跡を残されるうちに、息は切れてくるし眩暈もしてくるし、いったい戦況は膠着状態といえ今のところは悪くはない、ゆえに食糧事情だってそう悪くないのに栄養失調、いやそんなはずはない。
かくて考えないように考えないようにしている、一個の生命体として最良の時期は最早過ぎ越してしまったのだという実感が湧いてきて、例えば女のように頭部を覆う皮一枚の事で一喜一憂するわけでは無論ないが、梁が落ち加減になれば簗も撓む、関東以来喰った記憶のない霜降りに近い比率で腹なり二の腕なりの肉と皮の間に臭い脂を溜め込んだ姿、あるいは重力に従って緩み弛み、野晒し故の細胞分裂の異常が点点と染みを作った肌をしつこく重ねる姿に思い至って、害毒で若宮を汚す気がして寒気がした。
そうなる前に身体など未練ごと引き剥がすのが大人の心得というものだろうが、その実とんでもない疫病神に魅入られたと思わせてやる気満々、厭だといわれるまでは構わぬだろう、などと太々しい心組みがいつのまにかできあがっているにいたっては善行自身恐れ入ったというほかは無かった。
しかし翻ってみればその時点でこの存在が生を維持している可能性が何パーセント果たしてあるのか、いやそれ以前の問題で自らもまた一山の白骨、一棺の土塊、あるいはレーザーの二、三も重ねて喰らった日には大気を構成する何パーセントの二酸化炭素に成り果てているというのが可能性として最も高くはないかと自問自答して胸を撫で下ろした。



その時ぐいと片脚が持ち上げられ、繋がれた根元を支点に上下の振動が一層激しくなった。深く穿たれる度、中を充たしたぬめる液体が自分では見えない身体の裏側を伝い落ちていく。
馴らされ続けた入口は腫れて熱を持ちはじめ厭というほど覚えのある鈍痛と異物感を引切り無しに訴えてくるばかりだが、それでも分け入られ奥の腺を直接叩かれる衝撃にあきれるほど素直に自身は緩く角度を持ちはじめ、濡れそぼつ下腹の往復する間で硬さを増したのには若宮も当然気づいたであろう、我が旺盛な淫欲に半ば呆れつつもここで踏みとどまる理性の持ち合わせなど始めからない。
もう片方の足首も捉えられ膝を折り曲げられ、胸苦しさに自然眉根がきつく寄るのを自覚すると、直後に同様に眉間を顰めた顔が迫って唇を唇で塞いだ。離れる間際に辛いですかと首に吹きかかった生暖かい空気、横隔膜の振動が直接響いた途端にどうにも名付け難い塊が全身を駆け巡り、高揚感に侵された目が見えなくなる。
繰り返し挿れられる体積が内臓を圧迫し、肺から押し出される呼気は口を閉じる暇さえ与えない。声帯を通過して立てる音が耳障りな啜り泣きに似てくるのに嫌気が差しながら、せめて意味のある言葉などただの一度も零すまいと、善行は荒い呼吸の間をすべて意味の無い呻きで満たすことだけに細心の注意を払い続けた。






止めようなく額を伝い落ちる汗が目に入り染みて痛むのを、顔を顰め震えの残る手で拭いながら善行は軽く咳を一つすると俯せた。

今、己の肉の中に何度目かの不毛な吐精をし、トレードマークの撥ねた髪の勢いさえ汗みずくの末すっかりなくなった流石に草臥れた顔、それでも調子外れの鼻歌で突撃行軍歌など聞かせてくる目の前に山脈のように裸身を投げ出すこの大胆な褐色の生き物は、目的に沿う身体機能、精神構造の単純、何処をとっても完全に完全、獣と代わらぬ傲慢な美、機動の峻烈を片時も離さずこれ見よがしに見せつけた。
部屋の隅に遠ざけられてある黒塗の銃器の一般兵卒の受け取る自決用のそれとは段違いの火力、世代などものともしない介錯の弾丸を頼みに、命ある限りは己の前に立ち導くであろう、修羅の巷に生き死ぬであろう戦の申し子。

いや、違う。野生には彼等の墓場があるという。密林あるいは幽谷のうち、時に人より長い時をも生きる深い賢者の目の色をした生き物達は末期を悟ればそこに倒れじっと訪いを待つという。
彼にはそちらが相応しい。
善行は真面目にそう思うほどには若宮を買っていた。

速く、高く、力強く。
生まれながらに、瞬発力と持続力、邁進のみを強要され疑問を差し挟む隙間も与えられぬ経済動物同様、目的が集中してまったく歪み無く一点に向かう潔さと共にその生命の姿、肉体と魂もまた透き通ってゆくのかもしれない。
善行は自分はただその煌きに呑まれただけだと結論づけ、眼に灯りはじめる昏い火には瞼で蓋をした。


人類の敵として地上に降り立った悪夢は、以外の生命に対しては五十年来徹底的に優しいまでの無関心を貫いて不変である。
かくて善行は件の濃霧に抱かれる山合の青艸の海、或いは世界から見失われた二三の大陸の中央、彼等の楽園にて、粛々と草を食む影の一群れ、駆けるために生き生きるために駈けるしなやかな四足の獣を脳裏に描いた。
そして彼らに並び立つとして何一つ恥ずべきところのない完璧無疵の存在が我が貧相な肋に肋を着けて横たわる不思議を思った。





《劇終》


★20030722 ASIA