《偶然》




不意に、折り畳み式のお世辞にも見場がいいとは言えない座卓の上で端末を触っていた善行が身体を後ろへ倒した。眼鏡をずらして眉間を両手の人さし指で押さえる。そのまま顔を覆った中から、低く呟きが漏れる。
『潮時……ですかね』
卓上にあったマグカップを中途半端に庇った格好で。
若宮は、何が、とは尋ねなかった。


しばらくして起きあがった善行は眼鏡を外すと卓上に置いた。膝立になって若宮の目前まで這い寄ってくると、胡座をかいた膝に両手をつく。
こうなれば彼の意図は明白だ。腕を首に巻き付けて、薄い唇で唇を食みに来る。差し込まれてくる舌を歯列を開いて迎え入れると、表情らしい表情のない顔をしきりに傾け、没頭するそぶりをみせる。
互いの肌をさぐり合い、ついでに着衣を剥がし合う間、互いに交わす言葉はない。善行は若宮に乗りかかり、ものの十数分で、儀式のように決まり切った手順で、意のままに、……制圧した。



埒もない搏戦、獣の呻き、噎び泣き、すべてが止んでどれだけ経ったか。目を開くと視界の端に影がちらついた。どこから入り込んだものか、小さな蛾が蛍光灯に躍り掛かっては鱗粉を散らしているのだ。薄い羽が硝子を叩く音が、リ、と鈴の音のように幽かに鳴った。

若宮はふと思った。
背中をこちらに向け横たわったまま眠ってはいないらしい善行の耳にもこの音は。
届いただろうか?







同情、憐れみ、そして否定し難い独占欲ゆえに。強く拒むことができなかった因縁をここまでひきずってきた。初めて彼と関係を持ったのは、大陸に渡ってすぐのことだ。士官にだけあてがわれた私室、もとは倉庫の事務所だったような部屋でベッドに腰掛けた彼は、自分に共寝を命じた。
『それは命令ですか』
『違うと言ったらどうします』
『お断りします』
『では、命令です』
もの慣れた風で命じた彼だったが、その実まったく慣れていないことがすぐに明らかになった。仕草、表情、そしてなにより受け入れた時の苦しみ様から。のたうつとまではいかずとも、痛みと圧迫感から逃がれようと身体が自然に逃げを打ち、そのためにかえって刺激が増すものか、眉間にくっきりと皺を刻んでいた。当然、彼自身も萎縮して、どんな手管を用いようが彼の意図に反し続ける。
『けがをしますよ』
諫め説得する若宮を、首を振り又眼光で拒絶し続ける。数十分後ようやく息がつけるまでに回復すると、ぎこちなく腕を伸ばして、冷たい掌で若宮の肩をとらえ、引き絞る勢いで力を込め続けた。額に脂汗を浮かべ、表情筋を痙攣させる様は重病人さながら。薄明かりの下、手の甲に血管が青く浮き上がり彼の忍耐の程を物語っていた。
『……う……や』
自ら身体を沈めようとする彼の腰を捉え、一段浅いところで揺する。と、そこで初めて内側から生じたらしい快に、強ばった四肢に熱が戻りはじめた。鼻突き合わせて、きまり悪げな苦笑い。結局彼は、事の起こりから二時間も後になってから、悲鳴じみた息、堪え損ねた嬌声を短く漏らして、あまりにもひきのばされた曖昧な解放に、ようやくたどり着いたのだった。


その時からすでに、行為の間、彼の言葉は一切存在しなかった。
思い返して若宮は、善行の強情に辟易半分、笑い出したい衝動にかられる。


噛みしめるあまりに切ったのだろう。口元から、そして局所からも血を滴たらせながら立ち上がると彼は開口一番こう言った。
『これが軍では当たり前の性欲処理の仕方だと、なにかで読んだんですが』
『それは、いつの時代の話です?』
『おや、違いましたか』
唖然となった若宮に向かい、いつの間にか定位置に戻した眼鏡の奥で、善行はにやりと笑った。
『この方法では、無駄に体力を消耗するだけです。』
『なるほど』
『さらに言えば、自分のタイプは面倒がないよう初めから調整済みです。いずれ全てのクローンがこうなるはずです』
『それは、気の毒に』







世の中に不思議は五万とある。軍用クローンであり、外の生活を知らない若宮には、当然ながら手に余る。たずねようとて相手もなく、気に病んでも何一つ変らない事が大半である。しかしそれにしても、善行ほど不可解な存在はそうない。短くはないつき合いの中で若宮は身に染みていた。気が向いた、あるいは退屈だというだけで交情を求めることも、そのひとつだ。

二人きりでさえあれば、何をしようがさせようが、あとを残そうが、照明あるいは白日の下で全てを晒させようが、まるで他人事とばかりに関心がない。ただし戦闘後だけは打ち込まれている薬剤の仕業か、差し迫った眼差しで、生傷を晒して挑みかかってくることがままあった。しかし、そうして過ごし過ぎた結果ろくに体が動かなくなったとしても、必ず仮眠からは独りでに目を覚まし、第六世代のしぶとさありがたさと嘯いて平然と帰途についた。全く非の打ち所のない、軍人然とした足取りで。

身体を繋ぐ事で何かしら解ると思うのは見当違い、ますます解らない。女より気まぐれ、いや、若宮の知る女性のうち肉体関係まで及んだのは商売女だけだから、もとより比較はできないかもしれないが。
それにしても、こうして自ら望んで蹂躙されながら、女扱いなどは死んでも許さないという顔をし、部屋まで送るなどという親切心は勿論一蹴、黙殺して。あえて理由を問おうものなら『処理、興味本位、......スポーツというのはどうです』などと端から建前に過ぎないとでも言いたげに選択肢を並べ、肯首を求めてくるようでは。


若宮としては、あきれ返るよりほかにないではないか。







昨朝未明、北九州陥落の悲報が全軍を揺るがした。
熊本からの撤退はもはや時間の問題となりつつある。
殿軍、......この戦いでおそらく自分は死ぬ。
抱けと命じたその同じ声で善行は、自分に死ねと命じるだろう。



背中をこちらに向けたまま眠ってはいないらしい善行は、羞恥も遠慮も微塵も感じさせない無頓着さで全裸を晒して横たわっている。つい先ほどまで、涙ぐむほどの喜悦に震わせていた喉を奥深くに潜めて、まるで死体のように静かに横たわっている。
初めて彼と関係を持ったのは、彼が部下から初めての戦死者を出した日のことだった。しかしそれは、ただの偶然だっただろう。若宮は深くはなく、そう考えている。


見飽きたと言っていい平板な背を、それでもぼんやり眺めていると、名残惜しげな二度の明滅を最後に蛍光灯が消えた。たちまち己の鼻先さえ見えないほどの闇が落ちかかる。
灯火制限にしてはまだ早いようだが。停電、或いは電源自体がやられたか。若宮はさすがに部屋の主に一声かけるべきかと迷ったが、近頃はよくあること、朝になれば判ることだと思い直し、悠然と寝返りをう
つと瞼を閉じた。

ともあれ、これであの虫は。どこへでも行くだろう。




《劇終》


★20040819 ASIAイヤになるほどただのエロ。