《連理》



 夕刻。
 小隊長室に向かっていた善行は向かいの整備員詰め所の窓に奇妙な光が踊るのを見た。不審に思って近づくと、速水と小杉の会話が聞こえてくる。もちろん主に悪癖が手伝って、善行はその場に止まった。

少年の高めの声は非常な興奮に弾んでいた。
「ヨーコさん、すごいよ!」
「私のスゴイ、違いマス。あなた、持ってるデス」
「ね・・・もう一回見せてもらってもいいかな?」
「もちろんOKネ。では、手を出してください」
 小杉は頷き、速水に右手を差し出した。速水も手を伸ばす。
「最初に模様ありキでス・・・出来たでス。 万物の精霊、この模様を巡って踊り、言うことを聞くデス。・・・」
 そうして小杉の指先が速水の手の甲に触れた瞬間、青白い光が生まれた。


 善行は目を見開いた。
 見間違いではない。見間違い様もない。あの日あの時、天から雪のように舞った光。夥しい血に濡れた大地で、絶望と荘厳に拉がれて見た光。それと残酷なまでに似た色の光が目の前の二人に宿っている。

 点として発し線を織り成して光は、すぐに二人の姿を蔽い尽くした。
 象形文字。回路。刺青。等高線。
 いずれにも見え、いずれとも違う文様が浮かんでは消える。
 
 触れ合った手の間、まるでそれ自体が生命を持つかのごとく拍動の速さで行き交ってそれは、速水の背に十二の突端を持つ巨大な影を浮かび上がらせたのを頂点に、彼等の四肢の端から流れるように散って行った。

 我知らず眉を寄せ、善行は唸った。

 あれは一体何だ。彼女は知っているのだろうか。




*****

 速水が立ち去るのを確認して、善行は詰め所に足を踏み入れた。部屋は暗くカーテンの隙間を抜けてくる陽が埃っぽい空気に縞模様を作っている。大柄な彼女の姿は薬品棚の前にあった。
「小杉さん、少しよろしいですか?」
「ハイ、司令。何ですカ?」
 艶やかな黒髪をひるがえした小杉の前で、善行は眼鏡を押して表情を消した。どんな顔をしたらいいのかわからなかったと言う方が正しい。うかつな態度で接しては品性を疑われかねないと逡巡した結果、いっそ単刀直入に切り出した。

「今の光は何ですか?」
「光、違いマス。祈り、デス」
 覗き見られたという感覚は全くないらしい。穏やかな返事があった。
「・・・祈りですか」
「ハイ。みんなハッピー、願う気持ちデス」
 そうですか、と答えて善行は唇に笑みを刷いた。腹ではまずい、と踏んでいる。彼女の言動に強い操作を感じた。彼女がその手の薬を所持している事は調査済みだ。
「オトーサン、私に言いました。祈りは想い。強い力でス」
 春風を思わせる柔和な微笑。彼女だけのイントネーションは浮世離れして、どこまでも優しく響く。
「ヨーコは幸せの娘でスよ? 強く想ウ、きっと届きマス。世界中ハッピーなるネ」
 しかし聞く善行の心は小波立った。この時代この戦局を前に、なんと強い女の言葉か。

「速水クン、ハッピーで包むヒト。世界を救う勇者なのデス。あなたハ?」
 小杉は手を出すよう促してきた。
「いえ、私は」
「ほら、見えマスよ? 優しい色、していマス」
 深く黒々とした眸に、先ほどと同じ燐光が映り込むのが見えた。
「優しい、・・・悲しい色、していマス」
 声の調子が一段下がった。見れば彼女の面には影が差し、悲しげに目が伏せられている。向けられた視線の先が己のある一点だという事が善行には即座に判った。その同じ場所で心臓が、ことりと音を立てた。

「ゼンギョー?」
 自失していたのはほんの一瞬だった、と思う。
「ありがとうございました、もう結構です。・・・仕事に戻って下さい」
 気遣わしい視線に居場所をなくした格好で、善行は踵を返した。
「真実ヲ失わない、重要デス・・・・でも、」
 小杉が何か言いかけたのが聞こえたが、足を止める事も、振り返ることもできない。追いかけてきた声がただただ沈痛な響きとして耳を打った。

 善行は頑なに部屋を出た。
 ドアを閉めてしまえば、薄曇の垂れ込める、何の変哲もない午後が広がっていた。





*****

 湿気の勝った、この季節にしては妙に暑い夜だった。

 その時が過ぎても善行は、四肢でできた檻に捕らわれたまま喘いでいた。何一つ漏らすまいと厳重に閉ざした部屋には絶対的に酸素が足りない。背後から覆い被さる体重、体温、項にかかる呼気、すべてが生々しく閉塞感を煽る。
 時間をかけて開かれ研ぎ澄まされた感覚に、身に迫る全てがざらりざらりと逆らい、総毛立っては吐気さえ込み上げた。せめて火照りを移そうとシーツに額を押し付けるのだが、篭る己の息の熱さがその効果を著しく削ぐ。

 浅く息を稼ぐこと数分。頭から鬱血が引く感覚と入れ違いに、腹の底から温い充足感が這い上ってきた。手伝われながら仰向けに身体を逃がして目蓋を開くと、煤けた天井が目に入る。
・ ・・なぜか昼間の一件を思い起こした。


 腹に乗せられていた腕を先へ辿り、骨の太い手首を捕まえる。汗ともつかない何かおぞましく濡れた指に指を絡めてみる。 


 もちろん何も起こらない。
 起こりようもない。


 いちいち数えたてるのがバカらしいほど度々に肌を合わせてきて、今もまた奥まで一部を埋め込まれていたというのに。何を今更。何の光か。
 善行は薄く笑った。幻に取り憑かれた気がする。
「どうしました?」
 匂い立つような雄と、気取らせるつもりのないらしい憔瘁の滲んだ声が耳元に囁く。
 善行は答えなかった。代わりに指先で、日に焼けた腕をつと撫でた。
 
 この肌の色にあの文様が描かれるならば。
 まして己にもあれば。
 相生の木の如く繋がるなら。




 ・・・まったくバカげた妄想だ。
 何も起こらない。
 起こりようもない。
 奇跡などこの世にはないのだ。




 眠ろうと思った。
 穿たれ尽くした洞ががらんと寒い気がして、触れていた腕を引き寄せて目を蔽った。
 雨粒が窓を叩く不規則な音が聞こえはじめた。






《劇終》


★精霊手イベント? 20030522 ASIA