《塩の柱(ソドムとゴモラ)》




目的に適う列車は八時と正午の二本だけだった。朝の便にできれば個室をと願い出ると、事前予約が必要だなどと窓口係はしぶった。が、用意の書類を提示するとすぐに折れた。
四時間ほどは並んでいただろうか、家財一切と思しき荷を背に負った疎開の人々の波を掻き分け駅を出る頃にはすでに日は傾いていた。食事をすませてから駅近くのビジネスホテルに向かう。

国内有数のチェーンホテルのロビーは別世界のように静かだった。
エレベーターを降りて灰色の絨毯に覆われた廊下を進む間、二人とも無言だった。今朝からずっと、窓口に並んでいる間も、善行は押し黙ったままだった。ただひとつだけ、若宮にとっては善行の半歩後を行くのが当たり前の位置だが、今は横に並ぶように、これは善行が出した指示である。僕は貴方に連行される身ですから、そう言った言葉は残念ながら冗談ではない。

部屋に着くとすぐに、善行は風呂を使うと言い出した。
若宮はベッドに腰をおろし、サイドテーブルに置かれた新聞に手を伸ばした。



****

薄い扉の中からは単調な水音が続いている。バスタブに湯を張るような低い音だ。
しかしその中から若宮の耳は、すでに何度も別な音を拾っている。
「……ッ」
噛みしめ押し殺された呻き声。
これは自分の職務だ。扉の前に立つ。
「失礼します。入りますよ」
一つだけノックし、大声で断りを入れながら、若宮はノブに手をかけた。
施錠されていると思っていた。そしてこのタイプの鍵であれば力一杯ノブを捻れば開くと高をくくっても、いた。しかし予想に反して扉は抵抗なく開いた。

まず最初の一瞬で、若宮は洗面台に置かれた二人ぶんの洗面用具に視線を送った。歯ブラシなどと一緒に剃刀が手をつけられずにあることを確認し、次にあらためて広くない室内を眺める。 
薄く立ちこめた湯気をオレンジ色の電灯が控えめに照らす中で、善行はシャワーカーテンを開いたままのバスの縁に腰掛けていた。裸の肩に備え付けのバスタオルをかけて俯いている彼の手は、左右とも脚の付け根に添えられている。白い指の間で彼の充血しきった部分がぬらりと濡れた光を反射した。ゆっくりあげられた、少々呆けた顔に向かって、納得して若宮は口を開いた。
「これは、……失礼しました」
では、と踵を返すと、善行は掠れた声をあげた。
「待て、待ちなさい」
さも不自由に立ち上がり、歩きにくそうに近づいて、最後は若宮の軍服の肩に両手を伸ばして引き止める。
「まったく……、弁解くらい、させなさい」
「はあ」
終わりも間近だったようで、肩が動くほどに呼吸を乱し、言葉を紡ぐことさえ容易ではないようだ。一言ずつ区切って善行は続ける。
「さっき、廊下から、もう、危なかったんです、わかりませんでしたか?」
「お疲れなのでしょう。その証拠です」
「いや、そうじゃない。……貴方のせいだ」
白いタオルが険しい顔で断言した彼の背を滑り床に落ちる。
もう一度、貴方のせいですよ、と繰り返した。
「わかったら、手伝って貰えませんか」
返事の代わりに若宮は善行の身体を抱いて壁に背を預けた。
裸の肩に指が触れた瞬間、善行の剥き出しの目元が僅かに弛み和らいだ。
しかし、若宮はその変化を無視した。



*****

壁に張られた鏡に全裸の肌が映る。浅黒い腕に抱きこまれた善行はまるで白い柱のように見えた。それだけではない、上を向いたままの善行自身の仔細も映し出されている。
善行はさすがに眉をひそめ、壁のスイッチへ右手を伸ばそうとした。しかし若宮はとっさにその手首をとらえ、押さえ込み、さらに彼の下腹に押し当てた。もう片方の腕は背側に傷めない程度にゆるく、しかし諦めを植え付けるには十分な強さでひねり上げる。
鏡の中で、片眉を上げた顔が呟いた。
「悪趣味ですね」
「やめろとおっしゃるなら、やめますが」
「いや、かまわない、ですよ」
善行はちょうどその位置に当てられている右手の指を蠢かせ、中断していた作業を再開した。若宮も指を組合すように重ねた手に力を込めて擦り上げる。手加減のない愛撫で、すぐに善行は切なげな息を吐く以外には何もできなくなり、ものの一分も経たぬうちに彼の欲望は、彼の掌の中へ弾けた。

汗ばんだ背中を固い胸にぴったり押し付け、どくどくと打っていた鼓動が穏やかに変わるまで、互いに無言でいた。
「気が済まれましたか」
しばらくして若宮は問いかけた。
汗が入ったか赤い目をして、疲れ切って見える善行は、しかし予想外の返事をした。
「いいえ。まだです。…若宮、貴方はどうです」
「誘っておいでですか」
心中、釈然としないでいる。行為の間中、善行が鏡に映じる狂態を視線を逸らすことなく視ていたからだ。その表情は好ましくないと感じた。実のところ何を求めているのかとも、思う。
「無理に付き合わなくても、いいですよ。貴方は女性が好きなのだし」
「それは貴方も同じですな」
善行は、ええ、と小さく答えた。




****

男を知らないわけではない、しかし慣れているわけでもないその場所へ指を埋めていく。長らくこの目的には使っていない以上易しいことではない。仕方なくそばにあったクリームのようなものを拝借し、ぬめりを借りてこじ開けていく。
久しぶりの状況と、善行が時折漏らす喉の引き攣るような声に、若宮の雄は次第に反応して勃ちあがった。だが一度萎えた善行には、何の兆しも現れてはこない。
「やはり、お疲れでは?」
善行は首を振り、続けろ、と大儀そうに唇を動かした。
「よろしいのですね」
「このままで……眠れそうにない。貴方が飲ませてくれなかった、から」
中を探る指に呼応し背を揺らし、やや早口になりながら、
「睡眠薬は、貰えないんでしょう。何を勘違いしているのかは知りませんが」
冷笑を浮かべた善行の目は、少しも笑ってはいなかった。
「……わかりました」
若宮はスラックスの前を寛げると、少しでも楽な姿勢をとらせようと、踏み出し上半身を前へ傾けた。ところが意に反し、腰の高さの洗面台に押しつけられた身体は見るからに緊張を増した。赤い人造大理石製の台は裸の腹には冷たい。若宮は手首を握っていた左手を離して庇うように腕を差し入れた。
「失礼しました」
詰めていた息を吐いて腕に預けられてきた重みを温かく感じつつ、目の前に並んだ背骨の山を唇で辿る。そうしながら奥まで入れた指の抜き差しを繰り返した。腿に当たる脚が時折、堪えきれずに動くのを感じながら、二本、やがて三本の指に抵抗を感じなくなるまで飽きるほどに続け。やっと満足してから、自身をあてがい押し込んだ。
「っ……ッ、」
それでも予想を上回るきつさだった。善行にとっては尚更のようで、一瞬叫ぶ形になった顎を噛みしめるように閉じて、自由になった腕を折り曲げ塞ごうとした。しかしその動きで、呑み込まされた感触を余計に強く捉えたのだろう。善行は息を呑んで体勢をがくりと崩した。横へ滑った肘が、コップや歯ブラシを床に払い落として高い音を立てた。



若宮は構わず、ひところより骨ばって見える背を抱く腕に力を込めた。
あの地で…、いや。無事に戻った後にも成り行き次第では失っていたかもしれない。
深みを犯す度に反り返る汗ばんだ首筋に頬を当て、奥の管を行き来する血と息の音を聴きながら、胸の奥からせり上がる感謝に満たされる。
感謝する相手など決まっている。
善行を背負って前線を遠ざかる間、すれ違った兵等の眼差しを思う。
両手に手榴弾を携え、言葉もなく頷いた顔、顔。
敵陣へ走り込んでいった彼らの、ただ一人として、戻ることはなかった。



善行はしばらくは目を閉じて蛇口を左手で掴んで身体を支えていたが、前後上下に揺さぶられるうち、首を下へ向ける彼の努力は次第に失われ、焦点の合わない目を眼前の鏡の中に泳がせるばかりになっていった。血の気の戻らない額から顎までを汗が次々に伝わり落ちる。口元からは忙しい息以外には何も零れはしないが、受け入れた部分は微熱を宿し率直に応えている。

若宮に終わりの見え始めるころ、打ちつける動きに押されるように切れ切れに、善行の喉の奥から問いが発せられた。
「裏切り、……とは、思……、ませんか」
若宮は言葉の主の濡れ光る目を視界から外して、返事をしなかった。代わりに善行の震えをきたしている脚から腰骨を辿って彼自身に触れる。今もって、ほとんど形をなさないままだ。
若宮はそれを確認すると、極まる一歩手前で体を離した。
物足りない、だが十分な開放が訪れる。
迸った精のほとんどを左足の内股に受けた善行は、しばらく台上に伏して肩で息をついていた。それから首を振り向け、物問いたげな眸を揺らした。だが、その唇が問いを発することはなく。かつての何度かのように、続いて何事かを求めることも、なかった。



***

二人してバスタブに張ってあった湯を始末に使う間、善行はやれ助かった、ありがとう、などと独りでぶつぶつ言っていた。が、すぐに船を漕ぎ出さんばかり怪しい目つきになった。若宮はタオルをかぶせて追い出し、それからゆっくり掃除をして出た。
寝室に戻ると、善行はすでに窓側のベッドに収まって大人しく寝入っていた。
その毛布に半ば以上隠れた顔を見てはじめて、一度も口吻を交わさなかったと気づく。おそらく偶然ではない。彼なりの示し方なのだろう。
それから安らかとは言い難い眉間、落ちくぼんだ眼窩、瞼の下辺を黒く汚す不眠の証を認め、瞑目する。

そう、ただ眠れないだけだ。
自分を傷つけ貶めることで罪悪感を埋めるような、安い男ではない。

明日になれば、何食わぬ顔で戦い始める。部下の死を無駄にするなと教えたのは自分だが、善行はそれ以上を求めており、成し遂げるまで止まることはないだろう。千億の敵を殺し尽くすと、彼はあの日誓った。
そして若宮はその後に随うことを望んだ。だから彼が望む限りを惜しみなく与えるつもりだ、自分に与えることができるものならば。


この人も自分も、まだあの地獄にいる。
だから今は許して貰えないだろうか。

若宮は灯りを消した肌寒い部屋で死んだ戦友の顔を再び思い浮かべた。そして頭を垂れ、許しを乞うた。


《劇終》


★060328 ASIA またしてもやっぱりイヤになるほどただのエロ。