展覧会の紹介

生誕100年 岩橋英遠展 2002年5月28日〜7月7日 道立函館美術館(五稜郭町37の6)
2月12日〜24日 日本橋三越本店/2月27日〜3月12日 なんば高島屋

 1903年、江部乙(滝川市)に生まれ、99年に没した、20世紀の日本画を代表する画家の回顧展。
 院展同人として活躍し、文化勲章も受けている、まさに北海道の誇る大画家の代表作が並ぶ。
 全体を通してみると、とくに新しい知見を盛り込んだとか、展示や章立てに工夫したとか、そういうことはまったくない、きわめてオーソドックスな展覧会である。
 説明のパネルも必要最小限しかない。ただ、出口に、自分のことを覚えてくれている人がいるのがふるさとだ、という意味の画家の言葉が掲げてあるのが目立つくらいである。
 函館に巡回する前の会場が二つとも百貨店であったという事情も関係しているのかもしれない。
 図録も、平山郁夫の短い序文めいたエッセーのほかは、監修者の奥岡茂雄・前道立近代美術館副館長の簡にして要を得た概説があるだけ。図版の後には、簡単な参考文献と年表、出品作の一覧くらいしかない。
 でも、それはいいことだと思う。
 さいきんは、作家よりもキュレーションをする側が目立っている展覧会や、やたらと分厚い図録が多すぎるとおもう。
 工芸の展覧会なんかでは必要最小限の技法の解説があるとうれしいし現代美術展で説明パネルのまったくないのも不親切だろうけど、岩橋英遠の場合は鑑賞するにあたってむつかしいことはさしてないのだから、これくらいすっきりしているほうがいい。作品さえあれば、もうじゅうぶんなのだ。それに、簡素な展覧会こそ、「含羞の人」といわれた画家にふさわしいのではないかともおもう。

 図録の奥岡氏の解説を読むと、これになにをつけくわえても「蛇足」になってしまいそうな気がする。
 しかし、そうも言っておれぬので、いくつかの作品について感想めいたことをしるしておきたい。 

 1 陸軍記念日の村の小学校 1928年

 奥岡氏の解説によるとパレットナイフを使っているそうで、英遠の進取の精神が感じられる。
 雪の塔の上の赤い旗を取り合うというのは、札幌南高の伝統行事「雪戦会」とそっくりで、これが戦後GHQによって禁じられたのもやむをえないという気もする。
 左下に人がたくさんいてにぎやかなので、ついそちらばかり見てしまうけれど、絵の全体からすると子どもたちがひしめいている部分はけっして大きくない。上のほうに目を転じると、校舎の屋根を圧するように積もる雪や、黒い木といったモティーフが見える。厳しい冬の自然がいかに巨大な存在であるかを、無言のうちに語っているかのような構図なのだ。

 2 駅(青梅口) 1937年

 戦後の英遠の画風からは信じられないモダンな風景画。
 だが、こうした試行錯誤が、後年の英遠の取り組みをしっかり支えているのだとおもう。
 それにしても、当時は近代的なものだったと思われる架線のリベットなど、いまはむしろ懐かしい部類に入ってしまった。東京の地下鉄銀座、丸の内両線の改装工事が終わり、リベット剥き出しの駅というのもなかなか見られない。

 5 歴史 1940年

 朽ちた木々の林を描いた異色作。こういう、戦争を鼓舞するのでも、写実的でもない一種異様な絵を発表できた時期としてはぎりぎりだったと思われる。
 図録では見づらいのだが、モノクロームに近い空間の中で、右から3本目の木の右側にある緑の帯と、左端近く蛇のように絡まっている枝の背後の緑が、あざやかなアクセントになっている。ただ、後者の緑は、幹なのか空なのか判然としない、不思議な色の帯になっている。
 自然への畏怖、はるかなものへの凝視。そういった要素が胚胎しているという点では、戦後の英遠芸術の出発点ともいえる作品ではないか。

 6  1941年

 パッと見ではたんなる写実的な絵なのだが、近づくとその迫真性に驚かされる。何の気なしに猫を抱えて、それが、やわらかくて、息をしていることに気付き、生きているということにあらためて驚かされる瞬間というのがあるけれど、それに似た驚きである。生命のもつなまめかしさへの驚嘆が、この絵のいちばん底部を支えているようだ。

 8 明治 1950年

 アヤメの咲く緑の庭をしずかにあゆむ盛装の女性7人。
 この絵の鑑賞はむずかしい。
 英遠の真意がどこにあるのか、はっきりと断言できかねるからだ。
 ただ、英遠も明治生まれであるから、明治の日本が、いつもどこもこういう華やかさに満ちていたのではないことは知っていたはず。だから、この絵は英遠にはめずらしく、鹿鳴館時代への皮肉が込められているのでは、というのが筆者の見方である。
 今回気が付いたのは、背景のアヤメが、あるいは尾形光琳を意識しているのではないか、ということ。

 11 庭石(水) 1953年 

 山内多門邸の焼け跡にあった庭石を描いた作品が5点ならぶ。
 この(水)は、水面を金箔で表現している。
 また、(雨)は雨を緑の筋で、(雪)は雪を白の筆触で表すなど、全体的に象徴的な表現が多くなっている。
 にもかかわらず、それらは本物の水面や雨や雪にしか見えないのだから、不思議である。
 静けさに満ちた絵画空間は、数万年、数億年という長い時間からほんの一瞬を切り取ったかのよう。永遠と一瞬が同居する、岩橋英遠の世界が、みごとに展開されている。

 22 習作 1961年

 戦後アンフォルメル旋風が洋画壇に吹き荒れるとともに、日本画にも革新の波が押し寄せてきた。この絵や、続く「待春」「記録」などは、そういう時代背景に対する英遠なりのひとつの回答ではないかと思う。この「習作」が純抽象ともよべる作風になっているのにくらべ、「記録」の2作は、抽象的な画面処理を咀嚼したうえで現実の対象と向き合う英遠らしさがいっそう強まっている作品になっているようだ。

 25  1965年

 冒頭で簡素な展覧会こそいい、と書いたけれど、これは解説がほしかったなあ(勝手なことを言ってすいません)。
 絵の左上に、僧とも山とも見えるものがあるがいったい何か、手前の白い岩のような群落はどこがモデルなのか、その向こうに広がるのは湖なのか砂漠なのか…。
 どういう意図が込められているのか、背景が知りたい。そう思わせるなにか不吉なものが、絵に宿っているかのようだ。

 34 憂北の人 1970−79年

 幕末の偉大な探検家、松浦武四郎は、なにを憂えているのだろう。
 絵に着手したころは「開発」万歳の時代で、完成したころは高度成長が終わるとともに環境問題などがクローズアップされてきた時代。そういう変化も絵に反映しているのだろうか。

 40 道産子追憶之巻 1978−82年

 もう何度も見ているが、そのたびに胸が熱くなるのを禁じえない名作中の名作。
 もしこれを読んでいる人で、まだこの絵を見たことがない人がいたら、ぜひ見るべきだ。1年に1度は道立近代美術館のこれくしょんぎゃらりいに出品されると思うから、そのときでもかまわない。そのこまやかな自然描写と、ふるさと讃歌を、一度見てほしい。
 今回あらためて思ったのは、冬から始まり冬に終わるのは「北海道らしい」と以前から思っていたけれど、実際の長さでも冬がダントツということ。全体の半分近くを冬が占めている。それにくらべて夏の短いこと。
 そして、最後、満月に照らされた大木の下、屯田兵の行進を遠く眺める英遠の少年時代の自画像で、この大作絵巻は幕を閉じるのだが、そういう設定に、英遠の本質があるいはあらわれているのかな、という気がしないでもない。ロマン主義は風景の没入を特徴とするが、その前提として、いったん、対象としての風景と、見る側の主体とはわかれていなくてはいけないからだ。「風景を凝視する人の孤独」。大木の下でひとりたたずむ、というポジションには、画家の生のさびしさとでもいうべきものが現れているようにおもえるのだ。

 さて、ほめてばかりいるのもなんだから、ひとつだけ注文。
 図録の参考文献の「逐次刊行物」の項、ほとんど署名原稿ばかり掲げているのはいただけない。新聞記者の感想文よりも、無署名でも研究や鑑賞に役立つ新聞記事(たとえば文化勲章受賞時の談話など)がもっとあるのではないでしょうか。

(6月10日)

 「風雪の名瀑」についてはこちらにも感想(論評)があります 

 表紙へ    つれづれ日録へ   前のページ   次のページ    「展覧会の紹介」さくいんページ