展覧会の紹介
平 山 郁 夫 展 | 道立近代美術館(札幌市中央区北1西17) 2001年9月14日(金)〜10月21日(日) |
いつだったか、「春の院展」を三越札幌店で見たとき、緑したたる大和の寺院を描いた平山郁夫の絵を見て
「なんだか、この緑はうそっぽいなー。こんなに濃い緑って、実際にあるものかなー」
と思ったものだった。
その後で、出張で京都へ行き、御所を歩いていて気がついた。
木々の緑が、まさに平山郁夫の緑の色合いなのだ。べつに彼がウソを書いていたのではなくて、たんに北海道の緑が薄かっただけなのだ。
筆者が平山郁夫の美術について書きたいことはおおむね以上であって、残りは蛇足である。
べつに悪い絵だとは思わないけれど、良い絵だとも思えない。
というか、とりたてて特徴のない絵だと思う。
「日録」にも書いたけど、たとえば東山魁夷や加山又造や横山清が、現代的な日本画を求めて苦闘しているのに比べると、あまりに穏当で、日本画の歴史に何一つ斬新なものを付け加えていないように思われる。
にもかかわらず、どうしてこんなに平山郁夫はエライのか。
少なくとも、世間ではエライ画家ということになっているのはどうしてなんだろうか。
ともあれ、題材を国内からシルクロードなどアジアに広げたという功績はあるだろう。
そして、院展の後輩に、インドや中央アジアを描く画家たちがたくさん出てきてしまい、いまや平山の題材があまり新鮮に見えないというのも、なにやら皮肉である。もし彼がエラくならなかったら、アジアを描くかきてがこれほどたくさん出てくることはなかっただろうから。
「流水間断無(奥入瀬渓流)」=りゅうすいかんだんなし、と読む=には、彼の特徴と、院展日本画がたどり着いた一つの中間的な地点がよく出ている。
輪郭線を書かない「朦朧体」を受け継ぎながらも、アカデミックな洋画のようなはっきりとした陰影には乏しい。奥行きをいくらか排して、明瞭な透視遠近法は注意深く避けつつも、不自然にならない程度に遠近法を用い、装飾的な行き方はやめる。
よーするに、狩野派や土佐派なんかに代表される日本画と、洋画とを妥協させ、ロマンチシズムな味付けを施しているのではないでしょうか。まちがってるかもしれませんけど。はい。
まあ、シルクロードを描くにしても、露骨なオリエンタリズムには走ってないから、そのへんは評価できるけど。かといって、そういう偏向した視線に対する批判的な見方は、もちろんないんですけど。
というわけで、たんにワタシが平山さんの魅力を分かってないだけなのかもしれませんので、だれか反論を書いてくださいな。