前のページへ  表紙  次のページ  他のページへのジャンプ  昨年の「絵画の場合」

絵画の場合2005 井学園大学北方圏学術情報センター ポルトギャラリー(中央区南1西22 地図D

2005年8月2−14日

(註・このファイルは約207kbあります
 

 最初におことわりしておきますが、筆者はこのプロジェクトを評するのに適任とはいえません。
 ことしの「絵画の場合」は、昨年にもまして、いわゆる「展覧会」以外の比重が高まったものになったようで、たとえば、美術の世界における「地域通貨」をめざす「アートピアプロジェクト」や、札幌の飲食店などに告知の箸袋などを置いてもらう「カフェプロジェクト」などが展開されました。しかし筆者は、これらを実見していません。見たのは、ポルトにおける展覧会と、カフェエスキスでの小品展だけです。
 ここでは、8月13日におこなわれたギャラリートークのもようを紹介します
 ただし、筆者のメモにもとづくものであり、文責は筆者にあります。
 トークの司会は、「絵画の場合」スタッフの穂積利明さん(道立三岸好太郎美術館主任学芸員)です。
 
 まず、ことしから参加した谷口明志さんです。
 谷口さんは、輪のような変形支持体による作品です。

穂積「絵画の場合は、絵画や、絵画についての思考を刺戟するような作家、作品があればいいと思ってやってきました。まず谷口さんですが、初めはふつうの矩形キャンバスに風景画を描いていました。その後、色や線をずらしたり、その中に或る立体が立ち上がっていくようなかたちの絵が長かったです。3年ぐらい前からこういう、壁を支持体にしたような作品を作り始めたようです。線のもつ鋭さが出てきたようです」
 谷口「「もともと、奥行きのない風景画を描いていました。ピカソを見たりしてるうちにこうなったんですよ。ピカソはすごく立体的な画面を作っている。『アヴィニョンの娘たち』でもそうですが、この立体感を自分もつくりたいと思ったのです(と、図版を見せながら説明)。人物自体は平らなんだけど、飛び出す絵本みたいな立体感で、飛び出してくる・・・。
 それをほんとに立体にしちゃったのがフランク・ステラだと思います。実際に面を切った、雲形定規みたいなものを画面にはめ込んでいる・・・。
 ただ、ピカソからステラにいきなり行かずとも、まだやれることがあるんじゃないか、と。
 抽象的なものを置いて重ねたような画面にして、平面でありながら、ステラのように、実際に前に来るようにしたいと考えたんです。
 
 手前の空間も作品にとりこむことをコンセプトにしたのですが、どうも作品の実寸のスケール感しかでないがないのが不満でした。普通の風景画では、1センチでも何キロにも感じられる空間を表現できるわけですよ。それで、ちょっと風景を取り入れて、悩む時期が続きました。
 「さっぽろ美術展」に出すことになったとき、それまで作っていた100号や120号じゃ、小さくて満足できなかったので「のびのびやってくれ」と言われありがたかったのですが、反面、大きくなると作品が重くなることで悩みました。
 で、ベニヤ板だけの作品になりました。厚みなしで展開しようとしたんです。
 結果として作品の意味あいがぜんぜん変わってきてしまったのです。壁が支持体のようになって、直接壁にかいた状態に見えてきます。支持体にものを留めようとしたことが無意味になってしまい、作品が宙に浮いているようになりました。
 しばらくは壁という2次元空間を取り込むという方向で作っていこうと思っています。輪の形や太さによって、作品がまわりをとりこむオーラが違ってくる。それをコントロールするわけです。
 今回の作品は、いままでとくらべ細いので周囲の影響を受けやすい・・・不安がありました。しかし、ひじょうに壁面がきれいでだったので、わりとうまくいったと思います。壁全体の空間を取り込めたし、空間全体をかえることができました。
 これをやっていくと、いよいよ絵画じゃなくなってしまいますが(笑い)」

 次は、林亨さん。
 林さんの作品は、ギャラリーの大きなガラス窓の、外からも内側からも見ることのできる紙の絵です。

 穂積「一見、ギャラリーに来た人たちによるプロジェクトの作品みたいですが、たぶん林さんは、他のメンバーとのバランスをとって、この空間に見合う作品を出品したのだと思います。自分が変わっていくのを楽しんでいるようなところがあります。
 東京にいたころは、カラーフィールドペインティング的な作品で、独特の揺れや、におい立つような装飾性が感じられましたが、北海道に帰ってきてからはジャクソン・ポロックのようになっています」

 林「ポロックっていう意識はあんまりなかったんですが、とにかく紙をつかいたかったんです。いままで排除してきたもの、それは『奥行き』だったんですが、それをもう一度見せたくなった。そのことが、紙や墨をつかうきっかけでした。キャンバスの上に絵の具を置くのでは見せられないものを見せたかったのです」

 穂積「イリュージョンを排除しながら奥行きを見せたかった、と」

 林「まあ、そうです。新しいイリュージョンをめざしたかった。ステラもあのあと立体になってしまい、ミニマルアートも出てきて、絵画は死んだ−と言われた。それをあえて受け入れようと思ったんです。
 今回は、ガラス面という設置面も考えて、裏も描きたいと。両方から絵の具で描いていけばイリュージョンも生まれる。また、これがエアコンで動くんですね。揺れて動くことで、紙ならではの表現をしたかった。むかし、旗のような作品を作りたかいと思ったこともあったんです」

 札幌と米国西海岸を往復しながら制作している大井敏恭さん。

 穂積「大井さんの絵はサンフランシスコの抽象画の伝統と、抜き差しならぬ関係にあるのではないかという気がします」

 大井「いまじぶんがどこにいるか、考えますよね。世界にはいろんな文化圏があるし、またいろんな時代もある。昔の日本もいまから見れば異文化ですよね。ただし、ぼくが考えていることをイラストレイションとして提示することは避けたい。描いているときは(頭は)空っぽです。
 
 競争の激しい米国社会にいて、マチをぶらついてショッピングモールなどに行きますが、そこにある色彩が(絵に)出てきたんだと思うんです。商品の色彩ですね。車や化粧品などに感化されたのか。人間の目を強制的にうばいとろうとします。
 むかしは自然をとらえていましたが、どんどん人工物にあこがれてきているじぶんというものを考えます。つかれますけど。
 小さなキャンバスを集めた仕事はもう10年前からやっています。ぼくの中では6つぐらいのプロジェクトが同時並行している。その6つがどんな関係にあるのか、じぶんでようやくわかってきました」

 穂積「大井さんは二項対立を提示していくのが特徴だと思います。アートとイラストレーション、自然の色と商業主義の色などなど。その中で、どちらかにかたよらずに、脱構築的に止揚しつつ作品をつくっていくアーティストであることが、話を聞いているとよくわかりました」

 つぎは、齋藤周さんです。
 複数の小さなキャンバスを連ねたり、ばらばらに置いたり、積み重ねたりして、空間をつくっています。

 穂積「周くんは、ペインティングが自明だった世代と、その自明さが崩壊したあとの世代の、中間に位置していまして、葛藤も大きかったと思います。近年は、壁に直接描いてアートにしてしまうやり方もめだちます。空間全体を単品のペインティングとして見られるような、縦横無尽な方法ですが、そのパーソナルな感じがぼくの胸を打つんです」

 齋藤「じぶんが生きてきた環境の中でいつも絵画はあったし、生きるためのバランスをとる手段として欠かせないものだったんです。できるだけ生きやすくするために、絵をくずしていく作業を3、4年前から始めていて、作品もどんどん変わっています。
 4、5年前までは、ひとつの支持体になにか描いて完結するという絵画を描いていて、じつはそれはおかしいんじゃないかと、崩していきたくなっていた時期がありました。
 ちょうど、フリースペースPRAHAを運営している後輩から『壁に絵を描いてみないか』という提案がありまして、ちょっと抵抗はあったんですけど、これもひとつのきっかけになるかと。やってみて、こういうふうにしてもいいんじゃないか、と。実生活の中で実践していこう、と。絵画を変えるというより、自分自身を変えていく中で絵画が変わっていったという感じです。5月には「回復の壁」というのを、PRAHAでやりまして、中と外の壁に描きました。のべ20人くらいで描きましたが、もっともっと自由にやっていけるという実感がありました。
 自分は、1枚でも成り立つ面みたいのをつくりたいという気持ちもあったので、そこらへんの葛藤はありました。1枚1枚独立していていも空間を成り立たせることは可能だと思い、搬入当日に展示プランを変更しました。なんとなく上のほうにつながる感じがあるのでこれは柱に置こうとか、考えながら、それぞれを配置しました。

 穂積「お父さんも画家であり、周くんの場合は描くことで立ち直ったこともあった。箱庭療法といったらいいのか、展示が自己回復の道のりにも見えてきます」

 安藤文絵さんです。今回は「Vestiges−痛みの痕跡−」という題に「彼は、私たちの背全ての者の罪のために刑し倒れ、砕かれた。全ての敵意は十字架によって葬り去られた」という、副題というか、エピグラムのようなテキストが添えられています。素材は「流木、テンペラ、大連 イスラエル 台北の土」で、三連画的な構成です。

 穂積「以前はふつうのペインティングでしたが、あるころから木片や流木に描くようになりました。安藤さんの場合は教会で作品を展示したりしているんですね。作品と密接なかかわりがあるような気がしますが」

 安藤「昨年からわたしのまわりで病気になる人が多くて、いつものとおり絵を描くこうとしても『これじゃない』っていう気持ちが強くて。
 大学院に入りたいと思ったときに、バッハについて書いた本に出あった。その中で、シュバイツァーがバッハについて書いているところで
『認められることに無関心であり、唯一の理解者は神であり、作品は絶えざる讃美として天に昇っていく』
というようなくだりがあり、大きなインパクトがあったんです。じぶんがみとめられたいというのを否定しているというところに…。
 だから、自分のためではなく、作品を作りたいと思ったんです。それが今も自分の作品の土台になっています。
 大学のアトリエが火事になって卒業制作も何も失う経験をしました。それを通して、自分の力のはかなさも知りました。その経験を通して、クリスチャンになったんです。
 去年は、生と死ということを考えました。自分自身だけでなく、家族も含めて。
 わたしの作品は、私小説のようなもので、自分の生き様や信仰の告白、祈りを刻み込んでいるのです。神の契約の中にわたしの家族もあるという、告白のような作品を昨年は作りました。
 今年は、反日運動のニュースを見るたびに、彼らの「謝ってもらいたいのだけれど謝ってもらえない」という内なる癒やされがたい痛みと怒りを感じました。しかし、この行き所のない痛みと怒りは世界中にあります。わたしは政治家でもないし、何もできないけれど、でも何か自分に出来ることはないかと考えました。
 今年の2月の2人展の作品の中で穴が空いている物があります。その穴は、私に十字架に打たれた釘の穴を連想させ、聖書にある「彼は、私たちの背全ての者の罪のために刺し通れ、砕かれた。」また、「全ての敵意は十字架によって葬り去られた」という箇所を思い出させました。キリストの手と足に釘が打ち付けられた時、そこには、時代をはるかに超えた全世界のすべての怒り、憎しみが集中しました。その釘があけた穴。その穴を今回この作品で作りたかったのです。それは、キリストが私たちのために支払った代価の痕跡。そして、すべての憎しみと怒りが背負われた痕跡なんです。私たちには担うことの出来ない痛みと怒り。それを全て背負った人がいる。そこに希望があります。
 今回の作品のために、様々な国々の友に手紙を出し、彼らの国の土を共に彼らの祈りを送ってもらいました。そして、送られて来た土を顔料として用い、穴の空いた木の上に注ぎました。それは、それぞれの国の土地に、キリストの十字架がすでに立てられ、そこにある痛みと怒りがそこに担われていることを宣言する行為なんです。願わくば、全ての痛みがいやされ、怒りが静められますように。哀れみと赦しの奇跡が起こりますように願っています。

 穂積「イコンの制作にたとえるとわかるかもしれません。オリジナルを上手に描くのではなく、描くことが祈りであり信仰の表明であるというあり方。あるいは、仏師の営みを思い出します。仏像をつくるのではなく、仏様を掘り出すという、そういう精神的な高みを具現化させようとしている作品だと思います」

(参考) 旧約聖書「イザヤ書」第53章第5節:彼はわれらの愆(とが)のために傷けられ われらの不義のために砕かれ、みづから懲罰(こらしめ)をうけてわれらに平安(やすき)をあたふ、そのうたれし痍(きづ)によりてわれらは癒されたり

 次は、藤田真理さんです。
 「湖花」(写真)と「こうべを垂れる」の2点を出品しています。

 穂積「藤田さんは、半年ほど前までは閃光や光を思わせるものを描いていましたが、今回の作品ではそれが背景にしりぞいて、太い線が出てきています」

 藤田「じぶんの中から出てきたラインやかたちをどうにか表現できないかと思い、照る照る坊主みたいのを描いたのが左のほうです。
 お坊さんが、考えて、うなだれているわけではないのですが、何かを思いえがいているようなさまを、ある映像で見まして…。祈り、というより、思い悩んでいるような感じが、重たくのしかかってくるような表現になりました。
 『湖花』のほうは、教え子が亡くなったりして、命ってなんだろうかと考えたのがきっかけになっています。去年までいた人がもういない。そのことを描くにあたり、暗いイメージではなく、生命力のようなものを表したくて、明の光と、生命力の光、そしてそれを補足するようなラインで描きました。
 ラインは即興で描くのではなくエスキースで9割がた、かたちをきめてから描くようにしています」
 穂積「このラインは、わりと具体的なイメージって言うか、ものなんですね。線による実験のようなものかと思っていたら、人の形象化というか…」」

 藤田「頭の中に残っていたものなんですね。なんといったらいいか、可能性のある感じを描いているという点はむかしからかわっていないと思います」
 
 今年から加わった小林麻美さんです。左が「外で遊ぶ」、右が「ずっと隣り合った家」です。
 以前のミーティングで「ライバルは映像だと思っている」と話していました。

 穂積「映像と物質性の絡みの問題もあるのですが、頭のなかのイメージを具現化することを大事だと思ってるんじゃないかと。それと、作品に窃視的なところがありますね」

 小林「『のぞき見』的だと言われますが、じぶんではあんまり意識していません。ただ、一枚一枚ふりかえって見ていくと、たしかにそうですね。
 じぶんでは、描くことも大事ですが、描きたいものと出あうこと、見ることも大事だと思っているんです。視野の中で、なにが見えているか、なにが見たいのかというのは、人によってもちがってくると思うし。
 絵の中にカーテンなどを描くのは、たぶん、向こうの世界にじぶんが気づかれたくないと思っているんだと。気づかれることで、今見ているものが変わってしまい、なくなってしまうんじゃないかという思いがあるんです。そういう状況で絵を描いています。じぶんが見たものが、そのままであってほしいという願いがあります」

 穂積「一貫して、見ることの後ろめたさみたいな感情があるのでは。ピーター・ドイルとかグレイグ・オーウェンスだと思っていたら、じつは(エリック・)フィッシェルだったという驚きがありました」
 

 穂積「大井さん、レスリー(・タナヒルさん=大井さんの奥様)についても一言お願いします」

 大井「彼女の場合、言語に興味を持っていて、頭の中で思考のプロセスがどう立ち上がっていくのかをすごく気にしています。言語がなくても思考することができるのか、とか。
 ここでは、植物の種とか、あるいはコーヒーカップや台所にあるようなつまらないものが描かれていますが、それらは視覚的な一種のコトバなんです。コトバと同時にそれらが描かれているのは…ううん、穂積さん、助けてください(笑い)」

 穂積「サンフランシスコの乾いた地盤を呼吸しているような中から生まれた絵だね、ということを渋谷さんと話したことがあります。あまり札幌的ではないですよね」


 渋谷俊彦さんは「気配」と題した連作5点です。左の写真はそのうちの1点です。

 穂積「絵画を考える、あるいは、絵画に刺戟をあたえる−のがテーマの展覧会にあって、渋谷さんは非常にソフィストケイトされた、安定した作風であるだけに、悩んでいらしたと思います。今回のは、力強さのようなものが加わったように見えますが」

 渋谷「ちらしの裏面にこう書きました。
 『私の絵画は常に自分自身を投影することから始まり、日々の暮らしと自然を背景に生成されたイメージを、画面に封じ込めることによって完結する。この10年一貫して追い求めてきたテーマは、「うつろひ」である』

 「絵画の明日」というスタンスに身を置けないじぶんに気づいた展覧会になりました。
 もともと自分(のキャリア)は、インスタレーションから始まって、だんだん平面に落ち着いてきた。素材も、以前は、ミクストメディアというか、金箔などを使っていたんですが、どうも素材に躍らされているような気がして、原点回帰の方向に向かっていきました。素材を絞り込むことで探求できることがあるんじゃないか、と。
 とにかく、数は描いてますね。道内で一番描いているんじゃないかと思うくらい。年間300枚は制作しています。描くことで、次へ次へと発展していく部分がある。絵日記的にやっていく中で、等身大の自分をその中に落としこんでいくというか、今回も、新しいスタッフや穂積さんからいろんな話を聞いて、今の自分のスタンスにプラスできた部分がある、と思います。自然体+(プラス)自分の中にためて、ためて、出す、といいますか、ぎりぎりまで耐えて我慢してから出していく、という…。
 今回の作品は、意図的に色彩を盛り込んだり、逆にほとんど単色だったり、ということをしています。2、4枚目の赤と青は、1色だけしか使っていません。あたらしい自分が見つけられたかな、という気がします。
 自分の中では、自然というのが大きい背景にあります。毎日のように藻岩山を散歩していて、朝や夕方の空気感が、作品に微妙に反映しています。また、会の皆さんのエネルギーも反映しています。
 去年の個展の作品からあえて1点ならべてみました。これは、初雪が降る前の、雪虫が現れたときの空気感とか印象を定着させたものと言えますが、あとの4点は、そういう具体的な、いつごろの季節といったイメージはありません。これまで積み重ねたものを醗酵させたものです」

 穂積「渋谷さんの宇宙観がこめられていると思います。絵画の遠心力に頼らずに、求心力に向かっていく作品です」

 渋谷「まだら模様の部分までは、版画の手法ということになるかもしれません。モノトーンでかたちのイメージをつくっていったとは、カラーを重ねる仕事で、透明色をどんどん重ねて色の厚みを出していくという作業で作り上げています」

 最後は、今年から加わった坂東史樹さんです。ガラスケースに収められた5点を出品しました。
 これまで制作していた、ホルマリン液のような内部に衣服や室内のミニチュアが浮かぶタイプの作品とはうって変わって、なにか影のような映像がうかぶ不定形の平面がケース内に入っているという作品になっています。

 穂積「坂東さんはぜひということで参加をお願いしました。坂東さんの作品は一般的には絵画だと認識されていないかもしれず、議論をまきおこしたかもしれませんが、絵画の持つイリュージョンというものを極限まで追究している作家ではないかと思います。坂東さんの参加が議論へのレスポンスを生み出してくれるのではないかと期待したのですが」

 坂東「いわゆる、絵画絵画した作品はもう10年以上つくっていません。今回も、最初は面白半分なところがあったんですが、だんだん絵画について真剣に考え始め、それに対するリアクションとして作ろうかと思ったんですが、これは、『絵画の場合』へのリアクションとしては、あんまりいい作品じゃないですよ(笑い)。時間がなくてそこまでできなかったんです」

 穂積「いやいや、今回の作品は、いわば映像と絵画のはざまのようなところにある作品で、十分絵画に対する刺戟になっているのではないかと」

 坂東「そう言っていただけると、たすかるなあ。絵の具の持つ物質感がない、かといって写真でもなく、投影したものでもない、薄っぺらさみたいのが好きなんです。これは、間違いなく平面なんだけれど、向こう側に空間が見えてくればいいな、というのはあります」

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