司馬遼太郎も知らなかった
芹沢鴨の謎

司馬遼太郎『新選組血風録』の「芹沢鴨の暗殺」にはこう書かれている。
この男の生地は、常州芹沢村である。郷士の子で、本名は木村継次といったらしい。芹沢鴨は、脱藩して風雲の中からの名であった。なぜ、鴨という奇妙な名をつけたのかはわからない。一字名をつけたのは、当時、いわゆる志士のあいだで流行していたからであろう。

司馬遼太郎はこのように「鴨」と自称した由来を「わからない」としている。芹沢は新選組の中でも凶暴な男として悪名だけは高いが、近藤、土方、沖田などと比べればはるかにインテリであって司馬が推定するような一字名が流行していたからというほど単純ではないだろう。

芹沢鴨は現在の茨城県行方郡玉造町の芹沢家の三男に生まれ、松井村の神官・下村家の養子となって本名を下村継次(嗣司)と名乗った。司馬遼太郎が「木村」と記しているのは間違いであろう。
尊王攘夷活動が盛んな水戸藩にあって、水戸学と尊王攘夷思想を延方学校(潮来所在の郷校)で学び、天狗党過激派の一味となって攘夷決行のための資金を各地の豪商に強要する先兵であったようだ。鹿島神宮の拝殿にて大太鼓を叩き破ったといわれる愛用の大鉄扇には「尽忠報国」と刻む。剣術は神道無念流の免許皆伝。

常州潮来館(延方学校のことであろう)での逸話を司馬遼太郎は次のように述べている。
隊規を乱したというかどで若い同志三人を土壇場にならばせ、そのあいだを芹沢は奇声をあげて走り、走りおわったころには、鮮血にまみれた首が地上にちらばっていた。私刑がおこなわれたかどでかれは隊の牢に入れられたが
「赤心、たれか知る」
と豪語し数日絶食し、小指を噛みきり、紙片に、
「雪霜に色よく花のさきがけて、散りてものちに匂ふ梅が香」
という和歌をしたためて牢格子の前に貼りだした。意外な文藻があることに。人はおどろいたという。

この後大赦により釈放された彼は清川八郎の提唱した浪士隊(新選組の前身)に参加するために江戸にはいるのだが、このときから「芹沢鴨」と称する。

『常陸国風土記』行方(なめかた)の郡
(倭武<ヤマトタケル>の天皇<スメラミコト>)更に御輿を巡らして現原<アラハラ>の丘にお行きになり………この地を行細<ナメクハシ>と言うべし」とおっしゃいました。このため後世に行方とよびならわします。その丘は見晴らしがよく天皇は現原となづけられました。この丘をお降りになって大益河<オオヤガワ>においでになり、船に乗って上りましたときに、棹梶<サオカジ>が折れてしまいました。そこでこの河を無梶河<カジナシガワ>と言います。ここはすなわち茨城・行方の郡の境にあたります。棲息する魚のたぐいは多くて書き表せません。
無梶河<カジナシガワ>より郡境に至りました時、鴨が飛び交っておりました。
天皇が射られるやいなや鴨は弦の音に反応してただちに堕ちてきました。それゆえこの地を鴨野といいます。

無梶河<カジナシガワ>は現在の梶無川。鴨野は玉造町の加茂地区で鴨の宮がある。

芹沢鴨は水戸学を学んだ、「尽忠報国」を旨とする勤王の志士である。天皇の威光にひれ伏すこの鴨にこそ、自分の身を犠牲にしても帝のために尽くそうとする高い志を見たに違いない。そしてこの鴨になぞらえ、名乗りを「鴨」としたものとわたしは推定するのである。

水戸学の普及に藩校「弘道館」を中心として水戸藩各地には郷校が設置されていた。玉造にも文武館という郷校があって芹沢村から通う道筋には梶無川があり、少年はそこに飛び交う鴨を見ていたに違いない。

さらに一歩進めて芹沢鴨はこの「常陸国風土記」の故事を承知していたかを検証してみよう。
芹沢鴨には潮来の郷校(延方学校)をアジトに天狗党の資金強要活動をしていた時期がある。当時ここには水戸藩主徳川斉昭に仕えた宮本元球という儒学者が在籍していた。宮本元球は考証学者でもあり、いくつかの文献を残している。たとえば「常陸誌科」などには「常陸国風土記」の考証研究も含まれている。芹沢がこの学者の謦咳に接したと考えて無理はあるまい。