牧師室より

 平和聖日の午後、満場の会堂で、皆さんと共に、木村草太氏の憲法についてのお話を聴いた。

 以前、教師として生物の話を教室でしていた頃、生徒から「センセイ、ホントに生き物が好きなんだネ!」と言われたのを思い出す。私が、無邪気な十代だったら、つかつかと木村先生に歩み寄って、「センセイ、ホントに憲法が好きなんだネ!」と言っていたかもしれない。もう一つ連想するのは、権威主義と手続き論に執着する宗教指導者らに向かって、律法の掟に反映された神の意思について生き生きと説く時の、イエスの律法に対するアプローチのしかたである。イエスの眼差しの先にあるのは、法に支配された社会の平面的な秩序ということよりも、掟というものをめぐって、神と人とが生き生きとした関係性をいかに築くか、そこにある奥深さということのように私には思える。木村氏が私たちに伝えようとされているのも、憲法の奥深さということのように感じられた。

 私は人前での発言が苦手なので(ホントですよ)、あの日手をあげて質問する勇気がなかったのだが、木村氏にうかがいたかったことがある。

木村氏は『テレビが伝えない憲法の話』の終章で、「押しつけ憲法論」による憲法改正の主張に関して、その不合理性を指摘する反論を示すとともに、そうした主張に添えて語られる、「今の憲法は敗戦の屈辱の中で押し付けられた文書だ」という「物語」が、少なからぬ人を惹きつけてしまう厄介さに触れている。氏は一旦、「憲法はその内容で評価すべきだ、という理性的な議論を定着させることが重要である」としつつ、上田秋成の『雨月物語』「白峯」篇で語られている、崇徳上皇の怨霊と西行法師の対決に言及しているのだ。西行は論理では怨霊に勝つのだが、同時に敗者の屈辱から怨霊化している崇徳上皇への尊敬と理解を示しつつ、その屈辱を乗り越えることを期待した対話をする。理性的な議論と共に相手への尊敬と理解を忘れず対話しつづけることの大切さを説く木村氏に、今も武力を誇示し、怨霊化しているような勢力に、何を見るかを聞いてみたかった。     (中沢麻貴)