なんで一緒やねん!?…そして達川マジック


きょう(2001年4月15日)は、掃除・洗濯と家事をこなす日にした。

昼間、掃除をしながらテレ東の広島-ヤクルト戦中継を観戦した。
広島の先発投手はラドウィック。昨季の途中に入団した選手だ。

私はこのラドウィックの動く姿を見たことがなかったので、これが初めてだ。
195cmという長身。体重104kg。
「球速は140km/hそこそこですが、こういうガイジン投手ってのは球質が重いんですよ」
ゲストで出ていた駒田徳広氏はいう(契約上の都合で「解説者」としては迎えられていないようだ)。
コントロールはそれほどよくない。そして、投げた後一塁側に体が流れるのを見て思った。
「あ、ハンセルもこんな感じだった」
ノーコンで一塁側に体が流れる長身の右腕投手という共通点。顔は似てないが…。

さて、夜になって日テレの巨人-横浜戦を観る。
横浜の先発投手はバワーズ。今年の白人ばかり4人の新戦力のひとりだ。
センターからの「バッテリー画面」を見ていると、長身でなんだかラドウィックに似ている。
「直球は140〜142km/h。でもあの長身で真上から投げますから、球速以上の重さを感じるでしょうね…」
江川卓氏の解説。これも昼の駒田氏と似たようなことを言っている。

このバワーズも右腕投手。投げた後、大きくではないが、やはり体が一塁側に流れる。
おいおい、三人が重なってきたぞ。

…そこで、三人の「スペック」を調べてみた…
 
No.
名 前
生年月日
身長・体重
投・打
42
ラドウィック
1971.12.14
195cm・104kg
右投・右打
14
ハンセル
1971.3.12
196cm・102kg
右投・右打
44
バワーズ
1971.7.27
196cm・100kg
右投・右打

やはり、体型がほぼ同じだった。三人の平均身長195.7cm・平均体重102kgである。
驚いたのが生まれた年。なんと全員1971年生まれ! 調べてみるもんだ。
ハンセルバワーズミネソタ・ツインズに在籍していた経歴も重なっている。

背番号も全員4が入っている(笑み)。ハンセルは昨年は49番をつけていた。
三人そろって、チームから絶対の信頼がおかれていないのも共通している…。
選手名鑑ひとつで、こんなことも発見できるのだ。

ちなみに15日のバワーズ、アンダーシャツではなく、ナイロン素材のような長袖を着ていた。
はくほうでいえば、スパッツみたいな。自転車のロードレースとか着てるような、ああいうの。
規定ではああいうの、どうなんだろう。別にいいけどね(笑み)。ああいう選手ははじめてみた。
*追記:その後、このテカテカアンダーシャツは各球団の日本人選手にも急速に普及。
それどころか高校野球でも当たり前のように見かけるようになったが、バワーズは日本球界でも相当早く着た選手なのはまちがいない。


さて、ラドウィックが途中入団と書いた。
広島は99年もデハートという左投手を途中で補強したが、活躍できず年内で退団した。
このデハートというと想い出すおもしろい話がある。
たった6試合の登板だったが、テレビ中継のある巨人戦で3試合投げた。
3試合とも1イニングずつ。しかも7/11の東京ドームの試合は先発だった。
そう、先発も1と0/3イニングで降板になっている。
6/25、6/27は最後の投手として登板している。
 
このうちの6/27の試合がいろいろと珍しいのだ。
先発はミンチーだった。七回の裏にミンチーに打席が回ると代打・野村が起用され交代。
四球で出塁したその代走が、なんと前の試合で二番手として登板している投手・吉年だった。
パ・リーグも含めて、野手が出きったときに投手を代走起用することはあるが、
なんと野村がこの試合最初の途中出場選手だったのだ。
つまり、吉年が二人目の交代出場。理由は今は調べられない。謎である。
もしかしたら、吉年がかなりの俊足なので、代走→そのまま登板となるのかと思った…。

チェンジすると、マウンドに上がったのはペルドモだった。
このペルドモは、ドミニカのカープ・アカデミーからやって来た広島が育てた選手だ。
92年に内野手としてシーズン途中来日したときは、試合中のケガによる骨折で一ヶ月で退団。
当時、「ドミニカは牛乳を飲む習慣がなく、みんな骨が弱い」なんていう報道があった。
その後、台湾でもプレーし、力をつけて96年に日本に帰ってきたが、
その年の途中、強肩を買われて投手転向となった。
達川監督が二軍から昇格就任したこの99年は、野手の練習も再開し「二刀流」を演じていた。

この99年、若林も投手から野手への転向をしている。若林は流転の野球人生…。
92年・高卒で中日に内野手として入団、94年に投手転向、96年に広島へ移籍。
そして99年になって、ふたたび内野手に戻されたのだ。2000年引退。

ペルドモがマウンドに上がったところで話が止まっているが(爆み)、
じつはペルドモ吉年と逆に、前の試合では代打で登場、そのままサードへも入っている。
そんな、バックボーンのはっきりしない選手起用が、この年の達川カープの特徴だった。
ペルドモはこの年から内野手登録だったが、すでに中継ぎとして何度も登板しているので、
この登板には何ら不思議はなかった…。

しかし2-2で迎えた九回、私が「できるかわからないが、こんなことやってほしい…」と思っていたことが現実になった。
ペルドモ仁志を出して清水を迎えたところで(たぶん)、なんと三番手・デハートが起用された。
サウスポーのデハートがここで出ることはまったく文句ないが、一試合で外国人投手三人目の登場。
審判も何にも言わない。どうやら、ペルドモが「内野手登録」だからOKらしい。
達川の「投野ボーダレス起用」ならではのこのリレーだったが、
結局デハート松井に2ランを喰らい、2-4とされてそのまま試合は決した。ペルドモが敗戦投手。
ミンチーペルドモデハートという「規定の盲点をついた」投手リレーに対する野球の神の天罰かもしれない。
*追記:2002年度ドラフト会議(01年秋開催)より自由獲得枠が設けられたことに関連して、
02年からベンチ入り外国人の組み合わせのパターンとして「野手3・投手1」「野手1・投手3」という配備が可能となった。
この話は1999年のもので、「盲点をついた起用」となっている。

結局後日、プロ野球機構だかセ・リーグだかから
「認めるが、紛らわしいのでこれを最後にああいう使い方はしないように」
というお達しを受けたそうだ。

先発ローテーション投手を平気で中継ぎ起用もした達川監督は二年で退いた。
選手達は振り回されるだけ振り回されて逃げられた感じかも知れない。
若林の退団も一緒だった。ほんとにかわいそうな野球人生。
 

カープ・アカデミーからはかなりの人数がやって来たが、力をつけるとメジャーへ行ってしまう。
チェコは一軍で実績を残すやいなや、出て行くと言いだし、
モメた末に一年広島に「拘留」してからレッドソックスへ放出した。
ケサダもポスティング・システムで渡米。ティモニエル・ペレスは今、新庄と一緒にメッツでプレーしている。
日本で年俸調停まで起こしたソリアーノは、今はなんと名門ヤンキースでセカンドのポジションを獲ろうかという勢いらしい。
*追記:その後ポジションを獲ったソリアーノ、ホームランも量産し、2003年は松井秀喜とチームメイトとなった。

なんだか、広島がメジャーのファーム化してるような気もしないこともない。
ミンチー加藤伸一が移籍先で活躍してるのを見てもわかるように、
お金が払えなくなるといろいろな意味で半端な選手は外に出してしまうのだ。
強いチームをつくるには選手を育てなきゃいけないのに、育ったら放出してしまう…。
なんだかむなしいなぁ。



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