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山崎哲
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茶房ドラマを書く
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01物干し竿 岩波三樹緒

茶房ドラマを書く/作品紹介
<短編>  ヒーロー  西牟田希

 30歳妊娠3ヶ月の六山(むつやま)ひかるは、空中で25分ハングしていた。

 後楽園遊園地の吊り下がり式ジェットコースターが停止して、20人が空中に素足をさらしている。
 加速して、激しい回転に向かう直線上で
「点検のため、停止いたします」
 と、うつろな女性の声のアナウンスが入った。
 離陸しそうなほどの加速から、がくんと制動がかかった。
 直線の途中で停止し5分経ち、10分経つうちに、眼下に人が集まり始めた。
 ゴールデンウィークの谷間の平日ではあるが、園内は人が多かった。止まったジェットコースターの下に次第に集まってきている。敷地の端にあるジェットコースター沿いに駅へ向かう歩道がある。人の流れが滞り始めていた。
 手のひらサイズほどの人間がいっせいにこちらを見ている。さかんに指をさしている。
 敦子や史野のほうに顔をねじってみるものの、先頭からでは、上半身を固定する大きなパッドがじゃまになって最後尾まで見えない。真後ろの人のソックスだけ見えた。
 スキー場のリフト状に座席の下は空中である。床が無い、すかすかした不安定感とスピードが売りの乗り物だった。
 ストッキングの足先が冷えてきた。コースターが回転するときに靴が吹っ飛ばないよう、乗車時に靴を脱いでくることになっている。天気予報で「今日は、7月の陽気です、薄手のコートも要りません!」いうのを信じての薄着が悔やまれた。
 ひかるは詰めていた息を吐き出した。
 何回か意識して呼吸する。胸がつまる原因を、特定しようと思っても(空中ではだし、点検と言って止まったまま何をしているのか分からない、3人で乗ったから、半端に自分だけ先頭に来てしまった、妊娠そして母親というものとは、あるいは今日の夕飯の材料がいまひとつメニューとして組み立てられない、等)定まらなかった。
「ああ、もう、いやや」
 右隣に座った女性が言った。
 右の耳がくわん、となるほどの声だった。
「ああ、もう降ろして」
 彼女は脚をばたつかせ、固定パッドをつかんでゆすった。
 揺れが伝わると、後部座席がいっせいに息を詰める気配が伝わった。
「ああ、もうええかげんにせえよ」
 固定パッドを押し上げようとする。
 乗るときに、一斉にパッドが降りてきた気がする。ひとつ上げたら一斉に上がるのではないだろうか。ひかるは固定パッドを握り締めた。
 後部座席のほうから、揺らすなよ、というつぶやきが聞こえた。彼女は、脚をばたつかせるのを止め、パッドの隙間からはみ出ている赤いカーリーヘアを後ろにねじ向けた。ひかるは、パッドの影にちぢこまった。
 彼女は、前に向き直り、「降りたいのを降りたい、言うて、何が悪いんですかー」
 地上に聞こえるような声で言った。
「ねえ」
 ひかるは、自分に向けられたものとしばらく気づかなかった。そうかもしれない、と気づいた後、じっと返事を待たれているような気がして、押し黙った。
「こんなん、降りたいと思わんほうがおかしいでしょ。そう思いません?」
 黒いパッドの向こうから、たぎった目がのぞいた。
 ひかるはゆっくり視線をずらし、前方の発着所に目をこらしてみせる。
「点検、といったままですね」
「そうや、もう30分は経ったんとちがうやろか」
 バーにつかまりながら体をねじっている。ジーンズの尻ポケットから何かを取ろうとしている。座席が上下に波打った。
 ひかるはレールを仰ぎ見た。つくりがよく見えない。ワイヤーではないふうにみえた。太いワイヤーが髪の毛ほどの細さで千切れ始め、エレベーターが落下する映画のシーンを思い出した。映画の結末を思い出せない。エレベーターボックスごと地面に叩きつけられたのだったか、離れ業で脱出したのか。この高さから地面に落ちたら。映画の俳優のように華麗なる脱出はできそうになかった。レールからこぼれおちたら、「あ…、」という愚鈍な死に顔になる気がした。ひかるはのどを押し下げるように唾を飲んだ。
「あ、やっととれたわ」
 小さな鈴の音がぶつかりあう。携帯のストラップが5,6本跳ねてぶつかりあっていた。
 いくつか鈴がついているらしい。
「もう、警察に電話したろか。あ、メールきてるやん」
いそがしく操作し始めた。鈴の音がさわぎだす。
「いま、ジェットコースターが、止まって、宙吊りに、なって、ます。写メ撮っとかな。ていうか、自分で撮ったら普通に乗ってるところやんな」
 首をつきだして、ひかるのほうをのぞきこんだ。
 普通の人の話し声の1・5〜2.0倍が彼女のデフォルト音量らしかった。かぼそいひかるの声に返事をしていたので、耳が悪いというわけではない様子だった。
 遠くでループコースターの歓声が聞こえる。建物の一部をくりぬいた穴を通過するスリルが売りのコースターで、その場所でひかるたちも悲鳴をあげてきたばかりだった。
 後部でぼそぼそと話し声がする。敦子や史野の声をさがそうとすると、哄笑がさえぎった。
「あっはははは。嘘やん、やって。嘘ちゃうで。ほんまやって」
 脚をばたつかせる。話し声が止んだ。後ろで、ちっ、という音がすると、勢いよく振り向いた。座席が小刻みにバウンドする。鈴の音がいくつか追いかけた。
 激しいベルの音が鳴った。
「点検が終了しました。このまま乗り場にて停車します。そのままお待ちください---」
 ジェットコースターはゆっくりと動き出した。

 発着所に着くと、固定パッドが一斉に上がった。足に力が入らない。ふらつく足をふんばって立ち、靴を履く。
 本来なら発着所を猛スピードで駆け抜け、一回転してもどってきて終了、のはずだった。待たされた時間と、回転が1回カットされている。ひかるたちのようにフリーパスならともかく、単品で乗車券を買った人は残念なのではないか。原因の説明なり、謝罪の一言があるのかと係員を見たが、係員たちは目を合わせないようにして、乗客を出口に促した。先頭にいたひかるが押し出された。
 発着所から階段を下り、地上に出て、敦子と史野を待つ。
 大きく息を継ぐ。
 学生時代、敦子と史野が、ひかるの運転がこわいと山道できゃあきゃあ言っていたのを思い出した。
「ひとことも、無かったですよね」
 耳元で大きな声がした。ひかるは驚いて半身をひいた。
「いま、ジェットコースターに乗っていたひとですよね」
「え、ええ」
「耳、悪いんですか」
「え?」
 無意識に片耳を手のひらで覆っていた。
「耳ね、私もつーんて、なりましたわ。係りの人に言ったほうがええわ。なんの言葉も無いねんもん」
 みごとに広がった赤いカーリーヘア。つり目が底光りしている。
「ほんま、何もないんかいな。謝罪のことばっていうの。私ね、こういう、客をずさんに考えているの、許せないんですよ。ひとの、キモチ、分かってんのか、っていうの」
 言いながら、ずれた服の肩をいらいらと直した。
 原宿や下北沢で見かける(一瞬見て見なかったことにする)様子の服だった。上着として複数の布切れを複雑な形にクリップで留めてまきつけている。ひかるの目線の先を食い入るように追っているのに気づき、階段のほうに目をやった。
「ほんま、大丈夫?」
 彼女のアップで階段がさえぎられた。
 20代とも30代とも見える顔がはちきれそうになっている。太っている体型ではないのに、全身をふくらがせているように見えた。彼女は10センチほど上空から、ひかるの目の中をのぞきこむ。
 ひかるは気分の悪いふりをして口を覆い目線をそらした。
「言ったほうがいいですよ。ほんま。ああ、もう、ほんま腹立ってきた。土下座させたい。どう考えてもおかしいですよね」
 地面を踏み鳴らす。携帯のストラップが四方八方に跳ねた。
「あ、これー?」
 頭をめぐらせてひかるの視線の先を追っていた彼女が、甘い声を張り上げた。頬が紅潮している。
「これね、自分で絵書いたんですよ」
 携帯のフラップを目の前に突きつける。ひかるはさりげなくみえるよう、半拍ずらせて視線を階段に向けた。
「これ、自分で、絵を、ここに書いたんですよ。絵を描く人に見せたら、『これは、すごいやん。』って言われてー。『なんでこんなんさらっと描けるの?』って。私、左利きなんですよ。」顔を近づけ、声をひそめて続けた。「左効きって、天、才、に多いんですって」
 ひかるは胃に何かが染みてくる感じがした。しゃがみこみたいが、それを目の前の彼女が見逃すと思えない。経験のない妊娠というもののせいなのだろうか。昨日病院で告げられたものの、何がどうなっていくのか知らない世界だった。
 妊娠を告げたときの、夫の雅弘の大きくひろがった目を思い出した。ひかるの肩をきつく抱こうとしてやめ、そっと下腹に手をあてていた。父を早くに亡くした雅弘にとって、「父親」は、特別な意味を持っているようだった。
 不妊治療もせず、自然と授かったが、ひかるに、何度もありがとうね、とくりかえした。ありがとうもなにも、二人の、と言いかけ、二人の何なのか分からずにいると、ひかるのおなかに向かってありがとうをくりかえした。
 大学時代の友人たちと約束していた今日の遊園地行きも心配そうに出社して行った。たいていの乗り物は「妊娠中の方はご遠慮ください。」とある。一昨日までは知らなかったことだし、と乗ってしまった。敦子と史野も平気平気、あたしも妊娠5ヶ月くらいまでお酒飲んでた、と請合った。ふわっと煽られたような気がしたが、敦子と史野のせいではなく、自分が無自覚に乗ってしまったのだ。そのバチだったのだろうか。
 もし、何かあったら、と思うと、雅弘の顔が浮かんだ。
 下腹が鈍い痛みを訴えてきた。
「私ね、ダンスやっているんですよ。このあいだパーマをかけて」
 赤い髪に手をあてて、サイドを見せる。
「パーマの具合みようと思って、トイレの鏡で写メ撮ったんですよ。それをね、私のホームページにアップしてたら」
 携帯をすばやく操作する。鈴がはやしたてた。
「あ、この写真」
 うつむきかけていたひかるの目の前に画面を差し入れる。カーリーヘアの気取った横顔のアップの写真。
「これね、幼馴染が、幼馴染のダンサーですって自分のホームページにアップしてて」
 携帯を操作して、画面を差し入れた。
「これ」
 先ほどと同じ写真がある。ひかるが顔に一瞬走らせた不快感をあごで振り払って続けた。「幼馴染のダンサーですってどういう紹介やっちゅうねん。あ、私、ダンス? やってるんですよう。」
 画面に表示されたホームページの文字を見せる。
 ひかるは、新居のマンションに引っ越した日のことを思い出した。
 新築で一斉入居となり、週末の引越し開始日は、引越し各社がエレベーターを奪い合うように荷物を運び込んでいた。業者が、ひかるたち夫婦の荷物をあらかた運び終わり、雅弘と最終確認のためトラックに行った後、チャイムが鳴った。ドアを開けると、「失礼しまーす」と冷蔵庫が視界をふさぎ、つづいてベッド、ソファがなだれ込んできた。
 呆然とした後、ひかるがうちのではない、と名前と部屋番号を告げると、「失礼しましたー」とあっというまに運び去っていった。トラックから帰ってきた雅弘に話すと、笑い声があたらしいフローリングに響いた。
「私ね、バレエ4歳のときからやってて。おかんに、あんた、けんかしてばっかりやからバレエやんなさいって言われて。そんでなあ、やっててんけど。もう、ほんと、おっかしいわ。私」
 ひかるの目をのぞきこんだ。
「学校でもすぐお前、委員長やれ言われるし。ほんま、あんた、目立つって言われるねん。友達もね、私、レズビアンとかゲイとか、ダウン症の? 友達がいるんですよ。もう、ほんまに、私、人が? 好きでー、人が、すき!」
 カーリーヘアは天を仰いた。
 ひかるははっきりと顔をよこに向けた。
 カーリーヘアは、「なんにも反応なしか」と鼻にしわをよせた。
 「ごめんねー、ブーツはけなくて」
 敦子と史野が出てきた。
 学生時代と同じく、背の高い美人ペアは衆目を集めている。
 それぞれ一児の母とは思えないスタイルだ。
「ひかる、大丈夫だった?」
 二人が近づくと、鈴の音がいそがしく鳴った。
 カーリーヘアが走っていく後姿が見えた。尻ポケットで鈴ストラップがはねている。手をとりあってしゃがみこんでいる、黒い髪をひとつに束ねた、やせた女の子二人組みに駆け寄っている。
「ちょっと、休もうか。まだ時間あるし」
 敦子が時計を見て言った。子供たちを預かってもらっている、園内のキッズハウスのお迎え時間まであとすこしあるらしい。キッズハウスのあるアトラクションゾーンに戻る途中、オープンカフェでコーヒーを買って腰を下ろした。
「ひかるさあ、体調大丈夫だった? 私もそれくらいの時期によくめまいとか吐き気がしたよ」 史野が言った。
「大丈夫、ありがとう」
 ひかるは史野に笑ってみせた。
「でも、顔色が悪いよ」
「そう?」
 ひかるは頬にさわる。指先の方がつめたかった。
 敦子はたばこに火をつけた。いつの間に灰皿を入手してきていた。
 学生時代、缶コーヒーを灰皿にしていたのを思い出した。授業の空き時間に安菓子を前にいつまでもしゃべっていたのを思い出す。UNOやトランプごときでも何かしらがおかしく、笑いがとまらなかった。始終だれかの話題(ひかるのコートのボタンが1個ずつずれていて気づかないとか、敦子が大酒を飲んで噴水のように嘔吐した昨夜の顛末とか、一応あたりに気を使ってから昨夜の彼氏とのセックスで畳で膝をすりむいたとか)があり、お互いが面白くて仕方がなかった。昨日会っていなかった時間に何があったかいそがしく報告しあううちに一日が終わってしまう。
 お互いの経験した男性の数もほぼ数えられる。敦子の華やかな笑顔から繰り出す毒舌に引かれて数多くの男子が寄ってきたが、当時「なぜこいつと?」と皆こぞってつきあうのに反感を示したクラスの男子と学生時代から10年にわたる同棲を経て入籍した。史野は3桁に届きそうな男性経験の後、木こりのような容姿の会社の後輩と結婚した。
 メンバーはあと2人で5人だが、北海道に教師として就職したり、今日は仕事が休めなかったりして来れなかったが、三人顔がそろうと、当時の気持ちまでそろった。
 あたたかくなってきた風が通り抜けた。紙ナプキンが舞った。
「おっと」
 史野が押さえた。
 史野と敦子は黙ったまま、コーヒーを口に運んでいる。
 この後、子供を迎えにいって、買い物をして、夕飯を作って、という段取りをしているのだろうか。
 ジェットコースターでここで死んだらどうしようと思った、とか、降りたら、名前も知らない人にとっつかまった、あれは何だ、とか、あんたスキだらけよ、とか、じゃあこの間のアレはなんだったのよ、とか忙しく口を動かさなくても、胸が静かに満たっていった。
「顔色」
敦子が灰皿で火を消した。
「良くなった」
「あ、ほんとだ」
「あ、うん。そろそろ、行こうか」
 キッズハウスの前に、ひとだかりができている。後楽園遊園地のヒーロー戦隊が、ショウの後、ステージから園内に出てきて握手をしているようだ。戦隊ファンの息子たちを参加させるべく、敦子と史野は小走りにハウスに入っていった。何とかレンジャーは昔と同じ5人5色のユニフォームを着ている。
「さっき、止まったジェットコースターに乗っていた人ですよね」
 落ち着いた声がした。
 黒い長い髪をバレッタできつく止め、顔の輪郭より大きいレンズの眼鏡の女性だった。
「私も乗っていたんです」
 黒目勝ちの大きい目を必要以上にひらいている。眼鏡のレンズの屈折率の関係で拡大して見えてしまうのだろうか。アンバランスな不安を与える顔だった。整った土台なのに、ねずみとも言える印象がある。
 レンズいっぱいに広がる目でひたと見据えてくる。きちんと見返すと、ひかるの目を見たまま話し始めた。「さっき、こわかったですね」
「ええ、そうですね、長かったですね」
「なんか、いろいろ考えちゃいました」
「私も」
 ひかるは笑った。
「映画の、エレベーター落下とか想像してしまった」
 黒目勝ちの彼女は笑った。ふいに顔をあからめ、
「あ、私、初対面の方に気安く話しかけてしまいました」
「あ、いえ。何事もなかったけど、ちょっとなかなか無いことでしたね」
 ひかるはつづけた。鹿野(しかの)さんと言い、彼氏と二人でジェットコースターに乗っていたそうだ。目の下の皮膚の感じから20代なかばに見えた。
「彼氏さんは?」
 鹿野さんは言いづらそうにちょっと笑った。
「それが…、ジェットコースターを降りた後、『遊園地の管理者を訴えよう』って人が集まってて」
 鈴の音。
「赤い…あの、爆発したような頭のひとが声かけてて。『安全管理がなっていない、謝罪させよう』っていって。それに彼がついていってしまって」
「…そうですか」
「私、やめてって言ったんですけど」
 ひかるは鹿野さんの顔をのぞきこんだ。
 ひかるが考える『やめて』の原因と一致しているか、判別できなかった。
「彼氏さん、熱い方なのね」とまとめた。
 鹿野さんは顔を赤くしてかぶりを振った。
「彼、大工をしてて。居合いとか空手をやっているんですけど」
「おお」
「いえ、違うんです。大工もやめてしまって。今無職で。彼の実家から送ってくるお米しかなくて、おかずが買えないんです。実家に帰ってって言っているんですけど。今日も、彼の誕生日だから、って…、10万円、渡したし…」
 ひかるは、鹿野さんが顔をしかめているのだろうと思い、そう相槌をうつべく、うつむいた鹿野さんの顔に視線をはしらせると、目を暗く光らせ、口元に笑いを浮かべていた。
 ひかるが黙っていると、鹿野さんはつづけた。
「この間も、彼の部屋に来た、新聞の勧誘が断りきれなくて、泣き出してしまって。仕方ないから、私が出て行って、断ったんです」
 ひかるはどういう表情をしていいかわからず黙った。
「彼、やさしいっていうか。相手に入り込まれて、自分が無くなってしまうんです。それで、よく、人を殺す技とか練習して」
 鹿野さんは顔をあげ、いっそう目をひらいた。ひかるではないものを見ているようだった。
「武道家ね」
 ひかるは大きく笑んでみせた。
 鹿野さんは再び首筋まであからめてうつむいた。
「私、また、自分だけしゃべって…。どうしたんだろう、こんな話まで」
「ここで、彼氏さんを待ってるんですか」
「ええ。後で、電話してみますけど。長そうで」
「…ジェットコースターを降りたときに、一言は欲しかったけど、怪我をしたわけじゃないし、なかなか、難しいかもしれませんね。」ひかるは鹿野さんの目をのぞきこんでみた。鹿野さんはうなづく。でも、誰の意見にもしおらしくうなづくのではないか。カーリーにも。
 カーリーが有象無象をひきつれて事務所に怒鳴り込むところを想像した。管理者のとまどいが想像できた。帰りにジャビットの型落ちのタオルでお引取り願うのだろうか。
 ひかるが学生時代、イトーヨーカドーのサービスカウンターでアルバイトしていたとき、謝罪の粗品がタオルだったことを思い出した。お客さんが、「スカートの縫いしろから糸が2センチでている」と言って、線香くさい黒いフォーマルの返品などでごねだすと、マネージャーがでてきて、のらりくらりと話をかわす。
 結局返品を受け付けて、返金し、最後に粗品を袋で渡すと、鬼のような顔から、花が咲いたような笑顔になるのだ。中身は、100本1000円の売れ残りのお年賀白無地タオルを包装しただけのものだったが、大きさと箱入りであることから、商品券だと思ったのだろう。
「でも」
鹿野さんは前髪をふるいたたせる。
「ビーストレンジャーも見れたし」
「今、流行っているみたいですね。若いママとかに」
 あまりテレビを見ない敦子ですら子供と一緒に見ている様子だった。
「でも、中身がほんものじゃないし」
 鹿野さんは口をとがらせる。
「ほんもの?」
「俳優が」
「ああ」
「ええ」
「後楽園ですし」
 ひかるが小さいころ仮面ライダーショウを見につれてきてもらった記憶がある。ショッカーがはでに転倒し、手前に倒れてきたショッカーの黒目が無表情だったことを思い出した。
 カーリーが5人一組で地球を荒らす怪人(アルバイト一万円/一日)をドロップキックでなぎ倒すことを想像しすこし笑っていると
「私、変ですよね」
 鹿野さんが沈んだ声で言った。
「え、ああ。いえ」
「AB型なんで」
「そうですか」
「何型ですか?」
「A型です」
 キッズハウスから史野と敦子が出てきた。二人の息子を連れている。
「では」
 鹿野さんに会釈する。
 鹿野さんは背筋をのばして、きれいな礼をした。
 史野たちに向かいながら、そっと振り返る。鹿野さんはぼんやりと人ごみをながめている。眼鏡を替えて、自分の、今持っているなにがしかに気づけばいいのに、と思った。ただ、それは他人から、横からふいに言われたのでは意味を成さないし、そう言いたいだけの、ひかるの自己満足かもしれないことを、年齢とともにわかってきていた。
 たっくんとまあちゃんが駆け寄ってきて抱きついた。
 「お待たせ」
 子供のからだと息が熱い。お母さんが持っている良いところが結晶のように出ている。たっくんは、史野の誰からも好かれる人懐こさと明るさ。まあちゃんは、敦子らしい、黙ってやさしい行動をする。来年は自分の子供。自分の結晶は何になるのだろう。
 たっくんの肩に手を置いて、ビーストレンジャーと握手する列に並ぶ。たっくんはビースト・レッドのファンらしく、そちらへ行きたがった。レッドはたっくんとしっかり握手する。史野が携帯で写真を撮った。たっくんがビースト・ピンクの方へ駆け寄っていった。
 ひかるは、後ろからおしだされて、レッドの前に立つ。レッドはすばやくひかるの両手をつつみこんで握手した。ひかるに向かっておおきくうなづいてみせる。史野が笑いをかみ殺しながら写真を撮った。

 敦子たちと水道橋駅で別れた。
 眠くなって、ぐずりだした息子たちをせきたて、帰っていった。
 田園都市線の大きい窓から、夕方の陽射しが車内をオレンジ色に照らしている。席がふさがって、立っている人で割と混雑していた。「赤ちゃんがいます」というバッチをつけると、席をゆずってもらえるそうだが、それをつけて座席を睥睨するのは気がひける。自分が座っていたときに、そのバッチをつけている人をさがして座らせたことも無いし、ラッシュの中で妊婦さんがつぶれないようにふんばってみる程度だった。
 長津田駅でどっと人が降りる。いくつか座席が空くところ、今回は座れなかった。
 発車すると、ドアのほうで轟音がした。
 激しい音が続く。ドアの近くの人ごみが避けられて空間ができた。
 周りの人々が、ドアの横に立っている若い男性を見て(あるいは見ないようにして)息を詰めている。若い男は、ドアに全身を叩きつけ、ドア横に座っている細い女性を覗き込み、ドアを力いっぱい蹴りつけては覗き込んでいる。
 男が顔を赤黒くふくれさせ、目を無機質にきらきらさせている。女性はこれ以上ない、というくらい目をつぶって懸命に「私は今寝ています」ということを表現している。カップルのけんかにしては、服装が違った。男が白いジャージ服に運動靴、女性はニットスーツにパンプス。男の金色に近い短髪に、女性はヘアカラーを入れていない素朴な髪形だった。
 男は無言でドアを蹴りつけ、ときには回転後ろ蹴りを放ち、回転するときに、ギャラリーに向けてにやにやと笑った。蹴りつける合間に女性をしきりに覗き込んでいる。誰も制止しない。ひかるは胃のあたりがひくついた。赤ちゃんがいます、というバッチをして注意したら、すぐさま子宮に前蹴りを入れてくるだろう。では、妊娠していなくても、制止、あるいは注意をとなえることができたんだろうか。
 終点中央林間に着くと、金髪の男は短躯を弾ませて、改札へ駆け上がっていった。
 座席の女性は、追うでもなくよろよろと立ち上がり、人ごみにまぎれてしまった。
 改札を出て、タクシー乗り場のロータリーを抜けてマンションへ向かう。
 前方に激しくうごく白いジャージの後姿が見えた。
 となりには、同じジャージを来た髪の長い女がミニチュアダックスを連れていた。男が身振り手振りで何か話している。犬をつれた女がとうもろこし色の髪をゆすって笑った。帰り道がいっしょになってしまうことに気づき、タクシー乗り場まで戻る。近くて悪いが、タクシーで帰ることにする。タクシーの4,5人の列に着く。胃が重い。動悸がうっている感じがして手首の脈をとるが、平脈だった。
 タクシーが次々とやってくる。
 ひかるが先頭になって、タクシーのドアが開いた。乗ろうとすると、どん、と横に押された。
 60代くらいの太った男性が
「今、私が一番目で、あなたがいるなんて気づきませんでしたよ」
 という、うす笑いをうかべながらタクシーにすべりこもうとしている。
 すると、後ろから大きい手が男の肩をつかみ、「並んでるよ」と引き戻した。
 太った男はよろけて尻餅をついた。
 お礼を言おうと見回すが、大きい手の主がわからなくなっていた。
「助けてやったぞ」
 とひかるの目をのぞきこむことなく、誰でもないひとりに戻ってしまったらしかった。
 後ろにいた列の方に向かって頭をさげる。
 タクシーに乗りこんだ。行き先を告げ、近くて悪いんですけど、と添える。運転手は無言で車を出した。
 タクシーの広々としたバックシートに背中を預ける。長いため息をついた。ゴルフ場わきの細い道を抜けていく。細い道なので対向車を避けながらゆっくり進むしかない面倒な道だが、近道をしてくれているらしい。ゴルフ場の玉除けの林から、木漏れ陽が車内をちらちらと走りぬけた。対向車を迎えてスローダウンする。
 ふと横を見ると、男の子が自転車でついてきていた。頬を紅潮させ、立ち漕ぎをしてタクシーを横から追い越そうとしている。タクシーが対向車を避け、スピードアップすると、自転車が後ろになった。
 男の子はひとりで漕ぎに漕いでいる。
 子供の顔が夕陽色に輝いた。
 自転車が小さくなっていく。

(了)