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01物干し竿 岩波三樹緒 |
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<石喰ひ日記> 神戸寄港(V) 小泉八重子
(2007年山崎賞最優秀賞)
この作品はフィクションです。
二〇〇六年 十一月二十七日 日曜日 雨
本日は一日作業の日だったが寝過す。いい加減くたびれたのだ。彩子が九時半に来て、私は自分の朝食のサンドイッチと珈琲を買いに走った。戻ると正子が起きていて、ミルクに黄な粉を混ぜたのをのんでいた。そして私を指しながら彩子にいった。 「この人、昨日安里さんに、寝るなら二十万払えっていうたんよ」 真面目が原因で狂っている彩子は 「ええええ」 と弱々しく驚き、 「そんなことお……」 とつぶやく。私はいった。 「そやけど、安里さんがかわいそうやからこれは誰にも言わんといたげてね」 「いや、言う!」 正子はいった。カキオに言いつけるという。彼は私たち姉妹の小学校の同窓生であり、安里の高校の先輩でもある。 「『安里とハイコは二十万で取引したが、不調に終った』!」 カキオのブログへ寄せるつもりのコメント。それを棒読みする正子は妙にかわいかった。 サンドイッチをたべ終り、これから外のクロークの整理に入る。踏み台を運ぶ。絵を出した。 最初に出たのは鈴木画伯の薔薇の絵である。ブルーの花器に赤い薔薇。家の居間にあったものだ。一日もしないうちに飽きる絵なのに、なぜか長々と飾られていた。この画伯は私たち家族とはどういう関係だったのかわからないが、車を運転中に事故を起して、叔母に怪我をさせた人として有名である。知名度については全くわからない。両親と祖母の間では、どうもピントのずれた人物のように話されていた。当然だが、誰もほしがらない。 その次に出たのは広野のゴルフ場を描いたもので、それが小磯良平と銘打たれていた。一同色めきたったが、印刷とわかりしぼんだ。同じく広野のゴルフ場をかたどった額縁の銅版彫刻が出てきたが、これは賞品の盾として、父の名がしるされてるので 「金属ゴミやね」 と正子はにべもない。 次に豊という名の小出楢重ふうの絵が出てきた。木彫の額縁の油絵。 「この豊ってだれ?」 私は聞く。正子はその絵をゴミと思っているらしく、従兄弟の創の息子、豊の絵ではないかという。 「ええっ!」 そんなことあるものかと絶叫しつつ、裏を返すと、広瀬豊、二科会会員とあった。それはあげると正子はいう。 正子が私に、それとひきかえに前田正邨の獅子頭をやるといっていた女獅子頭は、中津川の中川ともの文楽の絵であることが判明。価値としてはうんと低い。これは私が貰った。 もう一つ安いポプラの絵が出てきたが、これも半ば素人である。 彩子が撮った写真が出てきた。クリスマスツリーのイルミネーションで、荒いタッチが洗練されている。時節柄、リビングに飾ってあった彼女の作品と交換する。納屋は片付き、続いて靴とトイレと風呂場を整理した。これで形見分けが終った。 「お疲れ様でした。お茶淹れるわ」 私はいった。彩子が滞在中に寄こしてくれた食料品の中のローズティーを淹れる。テーブルに並べ、ココナッツ菓子を供する。テレビをつけた。乳癌の番組をやっている。手術後のひしゃげた乳房がうつる。乳首だけを残した映像が生々しい。正子はいう。 「これなら取ったほうがいい。きれいよ、取った方が」 私はその言い切りに反発を覚えた。 「そうかな……」 「そうよ。うちの学年の人にもすっかり取った人がいて、パットか何か入れてるの。それで、『こっちは感じない方だからどんどん揉んでくれていい』っていってたわ」 ははははと笑う。正子のその笑いについていけない。 「たえちゃんはどんなにひしゃげていても、感じる乳首があった方がいいと思ってる?」 非難がましく聞く。私は正子の陥没乳頭を思い出していた。 「そういう聞き方には答えられない」 辛うじて言い返した。やがて、すぐに正子に正確に答えないことが何かに負けるような気がしていった。 「まあ、できるだけ敏感なスポットは残しておいた方がいいということよ」 といった。正子は苦々しく茶をのんだ。彩子はココナッツ菓子をすくいとりながら 「姉妹でこういうことって話さない方がいいね」 と笑った。私たちが同じ屋根の下で暮していたとき、一番手に負えない暴れ馬は彩子だった。正子と私にわがままと暴力のし放題をしていたのに、今になってみると、私たちの潤滑油のような存在になっている。それは彼女の病気のせいだ。抗鬱剤ですっかり穏やかになった彼女は「やさしい」とまで言われるようになった。 彩子が帰り、私はすみよしに出かけ、正子とは夕食を別にした。
二〇〇六年十二月八日 土曜日 雨のち晴れ
今日は彩子の夫、次郎が来る。形見分けが終った状態をみてもらうためだ。次郎はキム・ジョンイルに似ている。ふっくらとした輪郭にぽってりとした唇と丸い目。風貌も似ている。ロータリーで、メンバーからも言われたようだ。 「赤い絨毯がないぞ」 とユーモアで返したところはさすがである。彼は彩子を通し、形見分けする私のことを 「ぜえんぶ、売っ払うなよ」 と牽制してたが、やってくると、 「もう全部売って下さい」 と言った。 (そりゃあそうだろう。鏑木清方をせしめたんだから) と私は思う。彩子の鬱で掃除の行き届かないあの家は、埃と脂でコテコテになっている。鏑木の掛け軸が似合うとは思えない。彩子夫婦が仏壇だけ引き取ればこのマンションも売りに出す他はない。正子と次郎はウマがあう。父が亡くなったとき、二人してテキパキと事務方を務めた。 私にとって、次郎は有難い義兄である。今、住んでいるマンションの保証人を引き受けてくれた。また、正子にとってもそうだろうが、精神病の彩子を守る夫というだけで有難い。ただ、ときにけむたい。何がかといえば、彩子とともに、説教をかまされるからだ。彼の頭の中では二人は同じらしい。 「彩ちゃんも、たえちゃんも自分と仲良くするということを心がけたらいい」 という。意味がつかめない。彼と私はあまりにも資質が違いすぎる。東大経済学部を出て、運輸省官僚となった男と、甲南女子大学を出てアルバイトと見合いに明け暮れていた私では、先ずその頭脳の構造からして違うと言わざるをえない。 彼は、強引な一面がある。そう感じた瞬間の逸話としては、最近ではこういうことがあった。 神戸に来た私は、山手にある有名な桜並木の坂道を車で「登り」たいという希望があった。下から眺めるその並木道は見事で、あまり観光客に振り返られない摩耶山のケーブル駅へと続く道である。その日は何の用事か、三人で母のマンションにいた。彩子が次郎に私の希望をいった。 「たえちゃんが麻耶山ケーブル駅にいく桜並木を登りたいそうよ」 すると次郎は、 「そうか。そしたら昼飯は山の上でして、車で降りたらいい」 と答えた。私は登りたいのだと主張した。 「降りるのでは意味ないのよ。あそこは登りの風景がいいんです」 「それでも、もう昼飯どきや」 次郎は却下した。がっかりした。その後は広々とした六甲山上のケーブル駅で歩いた。そのときの次郎の後姿以外全く記憶にない。 次郎の息子は現在、串カツ屋の娘と恋愛中だ。その串カツ屋は借金二千万の店である。次郎は結婚に反対している。だが私は甥に無言のエールを送っている。もし彼らが結婚式をするなら出席したい。両親や親族、友達、誰一人いない式であっても私だけは行きたい。 次郎と正子は母の財産について話し始める。母の財産については現在、精神病の彩子が管理している。それが彩子にとって不可能なのは誰の目にも明らかである。現在も管理は殆ど次郎がかわりにやっている有様だ。ここに来て、次郎にとってもそれが負担になってきた。年齢的にも社長業の片手間でできることではない。ついては法廷後見人をつけたい。 また、このマンションの査定は知り合いの不動産業者に頼みたい云々。その話は全くこちらに向けられる様子はなく、私は蚊帳の外だった。正子と二人、一生懸命会話しているが、それにのれない。茶を淹れ、アンコの入った煎餅を出す。石のように硬い煎餅だ。歯が立たない。スーパーでみたときの印象より硬い。 「硬すぎた? 御免」 といい、柔らかく小さな饅頭を出すと次郎は旨そうに食べた。彼はストレスがたまると、羊羹の一本食いをするらしい。当然コレステロール値は高く、ドロドロの血だと言ってはばからない。彩子はつい声を張り上げる。 「もう、食べたらいかん!」 という。こうして会見は終った。彩子夫婦は帰った。正子と二人残る。夕食はゴーヤチャンプルと野菜スープと蕪の漬物、シャケ。残り物だ。 「正ちゃん、お願いやけど」 私はいった。 「なに?」 「叶厚子ちゃんがお家の道具売った所聞いてみてくれへん?」 「いいけど、厚子ちゃんあんまりいい気しないと思うよ」 「なんで?」 「あんだけのお家の、お母さんが名門の人が、道具売ったいうたら人聞き悪いでしょ?」 「へえ、未だにそんなこと言うてはんの?」 「そうよ。当り前やん」 「そやけど別に左前になったわけでもないでしょう。宝正宗かて健在やし」 「そらそうやけど、清酒業界も厳しいん違う?」 と冷たく突き放された。 正子と厚子は幼稚園からの友達だ。後生大事に培ってきた友情。宝正宗は宮内庁御用達の店で、養子の社長は父と親友だった。厚子はずんぐりむっくりの体型の、少し鼻にかかったような声でしゃべる気のいい女だ。手先が器用で刺繍の先生をしている。厚子の母親はときに神経症的発作を起す難しい気性らしい。叶家経由で古道具屋を紹介してもらうのはあきらめた。
二〇〇六年 十二月四日 月曜日 雨のち晴れ
この日、突然京都に行くことになった。彩子が行くと言い出し、それならと正子と私もついていくことになった。彩子はカメラを首からぶらさげたオーバー姿。正子は母のグレーのオーバーを着ると物堅い警察官のようになった。私も母の小豆色のセーターを着て黒のジャケットをはおる。 四条河原町に出た。正子が薦める田ごとという懐石料理屋で千五百円の弁当を食べた。正子はデジカメで、私を撮って、うつりがよく撮れたので、 「くやしい」 といった。彩子だけが豪華弁当を食べた。そこを出てタクシーを拾って永観堂まで行った。紅葉の季節が温暖化でずれてきているので、まだみられる。銀杏の葉が柔らかく降り積った庭の、大ぶりの紅葉が明るい。浅い遣り水に鴨が歩いている。 そこを出て、真如堂まで歩く。 「この辺は確か、石井さんの家が近いんと違う?」 と正子がいう。石井とは去年別れた夫の実家だ。 「そうよ。行ってみる?」 フェンス越しに学校があり、旧弊な美術館がある。やがて児童公園がみえてきた。白い地面に遊具の色が鮮やかである。様々な思い出は最早私の心を突き刺すことはない。ただ空気に触れると気分は重い。隣の塾は取り壊しになり、石井家があらわれる。ガレージはブロック塀で閉ざされた。木立の向うに淡い色合いの宮大工がこしらえた二階建てがみえる。中にはパーキンソン病に倒れた元の夫、信夫が二階のベッドで寝ているはずだ。手伝いの人はほぼ毎日来ているようだが、老齢の母には苛酷な毎日だろう。 私にとっては死んだ家である。 棺の周りを回るように、三人が静かに歩く。 そこから堂への坂道を登る。日差しは明るくなってきた。真如堂の紅葉は既に見頃を過ぎていたが人通りは混雑していた。緋毛氈の上に座って私は茶、正子は甘酒、彩子はりんごジュースをのんだ。目の前の男たちを品定めする。 「見渡してみてもいいのはいないねえ」 正子はいう。 「あそこのカメラかかえたの、私、ちょっとタイプ」 彩子が堅い微笑みでいう。 「鳥越みたいやね。私、嫌いなんよ、鳥越って。言うてることが繰り返しみたいでアホみたい。ああいうバカは嫌いなの、私」 キャスターの気障な男の名をいう正子。 「あれはどう?」 と木立ちに紛れて佇んでいる幽霊みたいな男をさして私がいう。 「病人じゃないの?」 と彩子。正子がいう。 「たえちゃん、まだ趣味悪いままやわ。信夫さんの怨念ついてるんと違う? まあ、それにしても、今回信夫さんの実家がみられたのは一番の収穫やった」 末端が茶色になった紅葉群。そこに集っているのも殆どが中高年だ。私たちは真如堂の参道を下った。そこからタクシーで寺町通りに出る。正子が行きたい和紙の店は、家裁の近くだった。再び私の思い出になる。 「私ねー、ここで泥棒しようと思ったことある」 「えー!」 「二千万円の入った紙袋もって逃げようと思った」 「どこで?」 「信夫側の弁護士事務所やわ。家裁の隣にある。去年の夏、信夫と弁護士事務所で出逢ったんよ。話し合うということでね。こちら側は弁護士なしの素で行ったんやから、考えたら大胆過ぎたと思う。もうそのときは頭まわってなかったんよ。少しでも早く解決したかった。二千万の紙袋もって逃げたかった」 「その紙袋、どこにあったん?」 彩子が怯えながら聞く。 「信夫の椅子の横やった。私、それだけがほしかった。別に離婚なんてしなくてよかったんよ。それもって逃げてれば今安泰やったかもしれんわ」 「そうやね。年金もつくしね」 正子が妙な相槌をうつ。 「トイレの中でうーんと考えた。七十二歳の弁護士、六十三歳の信夫。あの二人の足やったら追いつかんやろ。やったろか思うたけど、そのとき、事務の女がいた。扉の前に座ってた。まだ若い。こらあかんと思うた」 寺町通りはアジア系雰囲気の店が多い。正子は和紙の店で目的のものがなく、買えなかった。また古道具屋に入ると、豆粒ほどの象牙の裸の幼童人形が緋の縮緬蒲団の敷かれた木箱におさめられていた。手足が動けるようになっており、一目で高価なものと知れる。五十万円だという。 父方の祖母の姉が形見に持っていたものとほぼ同様だ。その姉は自殺のような死に方をした。場所は湘南の結核療養所だ。そのかたわらに置いてあったのがこの小さな人形だ。 寺町通りを四条河原町に向って歩く。市役所の交差点で、かげりいく陽に向ってシャッターを押すと、外人が自転車で向ってくる。手編みの丸い帽子をかぶり、白髪交じりのごま塩で、ショーンコネリーを少し砕いた感じだ。 にやにやしながら私たちの後ろをカーブして信号を待っている。 「ちょっと笑い過ぎ、あの人」 と彩子に言いながら、次の瞬間、私はその外人に声をかけていた。 「どこ行くんですか、これから?」 「DVDショップ」 外人は私に問い返す。 「観光?」 京都は私にとって観光の町ではない。それでもYesと答えた。すると、 「Have a nice lovely day」 と言って、寺町へと走り去った。そのままついていくことはできなかった。隣に姉たちもいる。さよならといってあの世までついていく気もない。だが勿体ないことをした。そこから寺町の甘味屋に行ったら、そこは潰れていた。正子が六曜社という珈琲店に私たちを連れて行った。 「さっきの外人、ついてけばよかった」 私は言った。 「ついてったらよかったやん」 正子は言う。 「そやけど、そうなったら『ええっ! あほらしー』て怒るでしょう」 私が言うと、 「そら怒るけど、かまわんといったらいいやん。意外と度胸ないねえ」 勝手なことを言うと私は思う。何でもやれと言いながら、その実何したらいかんと言う。肉親の言うことほどあてにならないものはない。 「私、帰るわ」 彩子が言うので見送った。しばらく正子と残って珈琲をのむ。 「たえちゃんも長いこと書いてるけど、応募なんかしてるん?」 正子はカマをかける。自分のことを書かれるのがいやさに常に牽制する。 「してへんよ」 「あかんやん。今のままやと教室の先生の哲ちゃん喜ばしてるだけと違うん? 哲ちゃんもいかん!」 「応募せんかて作家になれる」 「その年でもう無理と違うの?」 「無理やないよ。結構いるよ、この年から作家になったん」 「例えば誰?」 「森茉莉」 「それから?」 「出久根とかいう古本屋もいたなあ」 「それから?」 「ん〜と……」 段々あほらしさが募ってくる。 「そんだけでしょ?」 「え〜と……」 「いないと思うんよね」 だからどうだというのだ。私は既に作家である。構成と営業が下手なだけだ。外に出た。正子とも別れ、さっきの外人を追いかけて歩く。どこにも見当らず、疲れ果てて夜になる。雨が降る。寺町のしもた屋ふうの商店街にともる蛍光灯が寒々しい。 その夜夢をみる。 生れ育った家である。大きな黒板がある。正子は白墨をもって作家の名前と学歴を書いていく。その名は記憶にないが、瀬戸内寂聴・東京女子大、曽野綾子・聖心女子大、川端康成・東大といった具合である。主に女流の作家だった。それは高い程度の学歴をもたぬ、また劣等生の私には不快なことである。正子は白っぽい衣服に身を包むあざらしのような感じで横たわり、黒板にしなだれかかるように書き続けることをやめない。嬉しそうである。その背中に爪をたて、やめさせようとする。だが正子はにやにや嗤いながらやめようとしない。更に爪をたてると肉にくいこみ、爪の型に細長く肉が剥がれ落ちる。嗤いはやまない。肩をふるわせて嗤い続ける正子。
二〇〇六年 十二月八日 金曜日 晴れ
阪急御影は、三宮梅田間では最も開発が遅れた駅であった。それはここに棲む豪族たちの霊と無関係ではない。昔近辺は、最果ての寒村に降り立ったような風情だった。改札の西側に、平べったいあばら家のようなすし屋があった。道の下に半ば埋まった状態で、その前を通る人々を睨みながら佇んでいた。後の店は殆ど記憶にない。古めかしい洋菓子屋があったような気はする。山の手は豪邸の森であった。 駅前開発がすすんだとわかったのは、痴呆の父を病院に連れていったときだから、およそ十年前になろうか。ビルの一角にある皮膚科の待合室で、気に入りの看護婦の名を幾度もよぶ彼をそのままにしておき、周囲に恥をかいた。ビルが立つ土地は長姉正子の同級生のものである。還暦過ぎの年で両親を抱えている男だ。 改札を出たと同時に脳幹をやられそうな生霊はなりをひそめた。 今回の寄港で、御影にばかり足が向うのは、私が離婚によって家をなくしたからだ。ようやくこの家ばかり目立つ街を楽しめるようになった。なぜか豪邸が空き家にみえる。実際にも時代はそのように動いているのだろう。以前の昏さが薄まった。 沿線を東へと抜ける広い通りがある。南は藪笹の生い茂る荒廃した雑木林である。果して人が住んでいるのか明らかではない。塀沿いに回ると香雪美術館であるとわかる。朝日新聞社主村山家である。中に入ると紅葉の奥に青磁色の屋根をもつ洋館と、雨戸を閉め切ったままの日本家屋がみえる。今は親戚の人が住んでいるという。 そこを出て更に東へと行く。南に見飽きた瓦屋根の花崗岩の丸い石垣がある。昔は東西に抜ける阪急沿線の広い通りはなく、南から北へ細々と抜ける道があった。江南小学校から倉本佐代子の家まで続く道だ。狭い踏み切りに来て、すぐに目に付くのが赤い前垂れをつけた地蔵である。西側にある墓場の手前で、倉本家への目印のように今も立っている。 同じ小学校に通う、同学年の倉本佐代子は母方の遠い親戚である。木曾御嵩にある本陣、中川家を祖にもつ。中川は万延期には和宮妃御留めをしたこともあり、商いは店先に商品を並べるような形態ではなく、大名等の旅籠を初めとした物流の総元締めという形であったのではないかと思われる。 母雪子はその本家筋の流れをくむ。佐代子の母春子分家筋の出だ。分家は明治十年の創業である。どのような経緯をへて分家したのかは明らかではない。 佐代子と私は四代前が家を同じくした。三代前の私の曽祖父中川俊三が本陣主のとき、本家は分家の五倍はあろうかという規模であった。俊三は衆議院議員を務めるほどの活動家であったが、その嫡男が御嵩の芸者にいれあげ、ライバルと張り合う騒動となった。結果敗北し、銃弾を腹にぶち込み、自殺をはかったが未遂に終り、白痴になって生き延びた。 俊三は息子のために本陣の前に大きな家を拵え、妻まであてがった。敬虔なクリスチャンであった妻の横で、息子は夏にはうちわを扇ぎながらへらへらと笑い、「たかあ、たかあ」と配偶者の名をよんだという。その声が無気味だったと雪子はいう。これが本陣本家没落のもとである。雪子にとってこの男は伯父にあたる。祖母恒子は彼の妹である。 一方分家に迎えた、丁度白痴の本陣息子とほぼ同期の養子は秀才で、目端が利いた。金融業を初めとして、繭、木材、綿布などを取り扱い、後年ハーレー等アメリカ車の輸入販売、名古屋への借家街の経営で一躍名をなした。総合商社の先駆けとなったのだ。 この明暗の差は大きい。没落本家と成り上がり分家。私が幼少当時、佐代子の母春子は、雪子に対して偉そうだった。私は佐代子と比較されることが多かった。 溝をあけられたという実感は今も私にも響いている。雪子と春子の嫁ぎ先の家の格は違った。雪子は佐代子の家なら安心と私を送り出すのだが、召抱えられているという感が否めなかった。両方の母の目が光っているのだ。 踏み切りを渡る。 墓はこんなに広かったのか。村のようにひなびた感じがいい。脇道には酒屋があり、側溝を流れる水は澄み渡り、紅葉と羊歯にいろどられる。水車が回る。この辺りは貧しい人々の集落があった。ベニヤでうちつけられただけのほったて小屋が並び、豪邸よりなぜか風景に溶け込 んでいた。 佐代子の家によばれるとき、決ってついてくるのが叶相子だった。浅黒い膚の大きな瞳をもつ、どこか怯えたような風情の相子は佐代子とはお神酒(みき)徳利(とっくり)で傍を離れたことがない。 叶家は宮内庁御用達の清酒会社の一族である。 この二人といると気詰まりだった。大人しすぎるので重い。一般の人々からみれば、江南小学校は令嬢令息の通う名門だったろう。だがその中にも厳しい階級があった。この学校では自宅に帰る生徒を一人では帰さない。帰る方向によって組み分けした。西宮組、芦屋組、御影組、六甲組というように。それぞれ豊かな家に帰る。六甲組は比較的豊かではない。女子の間では社宅に住む私がトップくらいだったろう。社宅といっても社長だから敷地五百坪はある。山の手にはやはりそのくらいの私有土地があり、山頂には別荘があった。そんな私からみても佐代子はまだ雲の上の存在だった。 いつとはなく話は決っている。今日は佐代子の家に行くのだと。それはおそらく母親同士の話がついているということだ。だから私の気は重い。御影組の男の子、元ちゃん、公ちゃん、西さんも一緒に細いけもの道を歩く。踏み切りを渡れば、もう戻れない気がした。 私は一人遊びの好きな変った子で、誰の家にも殊更よんでほしくないのだった。 御影山手にある佐代子の家はいかめしい門を入って石段をのぼった上の瀟洒な洋館だった。中は応接間と居間で、六角に張り出した窓からバルコニーと枯れ芝生がみえた。庭の上に椅子を置き、著名な鉄鋼マンである佐代子の祖父がパイプをくゆらせていた。佐代子の父はその跡継ぎで、温和な性格のカメラが好きな男だった。 今、道なりに山へと向うのだが、佐代子の家が見当らない。最早売りに出たのか。それらしき門構えも記憶とは異なり判断に迷う。エリートと結婚した佐代子は現在東京の尾山台におり、息子と娘がいる。夫をなくした春子は近くに住んで一人暮しという。 佐代子の家には大きな防空壕があった。門前にガレージのような形で残っていたように記憶する。玄関は洋風で暗かった。入ると廊下の奥で寝たきりになった佐代子の祖母のベッドが垣間見られた。厳しい姑が長生きで苦労したと春子はいっていた。看護婦が常駐しており、女中の数も我が家より多かった。 佐代子とどのような遊びをしたのか殆ど記憶にないのだが、ソファで三人でテレビをみていた。音を消す。それは私のアイディアだった。西洋のドラマ番組だった。音を消したので内容はわからない。勝手な台詞を、表情に照らし合わせ、日本語でいう。居間に一人の女がいるというドラマの映像だった。彼女が耳を覆い突然叫び始める。 「きゃあ、大変! 火事だわ」 と私が言う。どこにも火の手はあがっていない。やがて放心したような表情で女がうっとりと窓の外をみつめる。 「それにしても遅いわね、消防車」 私がいう。画面と台詞にギャップがある。ギャップが大きいほど面白かった。それにも飽きて他にうつろうとすると、佐代子はもっととせがむ。いやいややった。怒らせたらまずいと直感したのだ。 前髪をプラスティックの飾り留であげた額の美しい佐代子は、普段は虫も殺さぬような風情である。ほっそりとした中背で、黒白の細かい千鳥格子のプリーツスカートに灰色のブレザーという制服がよく似合った。然し内実はひどく神経質で負けん気だった。どこか私を見下している気配があるのは春子の影響であろう。 テレビ遊びに飽きて外に出る。庭は広いので、駆け回っていると息が切れた。すると佐代子は私に向き直り、厳しい表情でいった。 「何よ、たあ坊、このくらいのことではあはあ言って」 気おされた。癪に障った。言い返す言葉が見当たらない。 佐代子は小学校の同学年対抗相撲試合女子の部で横綱を張った。中背でほっそりした佐代子が……と驚きをもって雪子は私に伝えた。病気がちだった私はおそらくその日欠席したのだろう。 十八人の女子だが、世間に名の通った金持ちの子女が三人いる。いずれも剣のあるボスたちだ。仕返しを怖れてわざと負ける者がいてもおかしくはない。その中の横綱ということは佐代子の誇りと芯の強さを物語っていた。 庭の垣根越しに隣の家の貧しい娘が顔を出した。ざんばら髪の背の低い少女だ。私たちは近づく。しばらく話してる間に娘は、家になる金柑の実をふくらんだポケットに一つまた二つと入れ足した。娘の家は平屋で、佐代子の家とは比較にもならない。 「私も遊びにいれてほしいわ」 娘はいった。媚のない真っ直ぐな目。平べったい顔。瞬間、佐代子は般若のような顔で私を振り向いた。まるでその言葉を発したのが私であるかのように。その迫力にたじろいた。困り果てた。 佐代子は何かとうまい弁解でその場を乗り切った。そっとのぞくと、金柑の汁が娘のポケットから染み出ている。握りつぶされた実はいくつだったのか。声がでなかった。 般若顔は、常に私の頭からはなれなかった。 穏やかそうにみえても、目は常にまぶしく外界をにらんでいる。口元をやや受け口にする顔は油断ならぬ威容だった。私の学年の女子は手に負えないという評判だった。ボス同士の争いは周りの苛めをひきおこし、全くまとまりがなかった。途中入学する転校生は優等生であればあるだけ被害をこうむった。その中でいじめられなかったというだけで既に一つのステータスであった。 そのわけはわからない。 離れ猿であった私には窺い知ることのできないことだ。 いじめからはずれることのできた人々。具体的にその名を連ねるとおぼろげながら佐代子の本質に迫れるかもしれない。 吉本良子。背が低い。かわいいし、勉強はよくできたが、検便の便を高学年になるまで持って来なかったという武勇伝を残す。井原由美。同じく背が低くかわいい。小悪魔。勉強はからっきしだが、先生の膝の上に乗るなど天性の媚で怒りから免れる。谷松子。背はふつう。ふんわりとした妖精の雰囲気。手先が器用。何事もノンシャランにかわすが、性格は頑固である。 こう並べてみてもなおわからない。 ただ僥倖としか思えない。長谷村工務店の娘、市子。野上証券の娘、美子。Tデパートの娘、ひな子。この三巨頭をおさえる財が佐代子の家にあったことは確かだった。そして大きな力にさからわないことも幸いしたと思う。だが最もいじめから逃れさせたのはあの般若面だったと思う。 やがて佐代子の家を帰るときがくる。いつも暗くなる前の時刻であった確かだ。また佐代子がわが家に来ることもあった。わずかな回数であったが、そのときの記憶は殆どない。 中学入学後、佐代子と私はますますその立場の落差が大きくなった。 小学校時代家庭教師のテコ入れのおかげで保っていた成績が下落し、母の怒りをかった。また初めての成績表を、醜い慣わしに従って、小学校の担任にみせにいくと、担任は校長室のソファに腰掛けて渋面を作りながら、 「佐代ちゃんでももう少しいい成績なのに」 と言った。私の父が理事をしていた関係上、同様のことが父の耳にも入った。雪子の悪い油に火を注ぐ結果になり、中学時代の私はススだらけの煙突から出た、欠食児童であった。咳き込むたびに周囲の嗤いをかう日々。虐待に継ぐ虐待。佐代子を理想とした雪子の怒りが私の人生を台無しにした。 こうして雪子の教育は私の自主性をくじくという以外の何物でもなくなった。暗記を間違えると雑巾が顔にぶつけられた。「悔しかったら覚えなさい」。そういう雪子はくたびれ果てた顔を手で覆い、脚をひろげてソファに座っている。汚いと思った。涙が出た。 雪子の外面はよかった。私はその頬が盛り上がった笑顔が別人のように思えた。笑顔は春子にも向けられた。一方の春子はいつも取り澄ました笑顔のない暗い顔で、眉に皺を寄せ、唇を突き出し、 「ゆっこさん、ああたねえ」 と諭すような口調で、高飛車だった。この差が雪子を更に追い詰めたのだろう。笑顔の裏では負けん気だった。雪子は常に私に自分の人の好さを語っていた。あれは何だったのだろう。祖母は悪人で、雪子は善人。だが実際に目の前で雑巾をぶつけるのは善人である雪子だった。おかしなことに私も彼女をただ人の好いお母さんとばかり思っていた。 ヒステリーがやまったのは私が高校に入ってからだった。おそらくあきらめたのだろう。 一方、佐代子とて安泰な中高時代を送っていたわけではない。厳しい採点に泣いて、皺だらけの答案用紙を友達と涙ながらにみつめていた。春子も家庭では厳しかったことが想像できる。佐代子は幼時よりずっと表面は穏和になり、話し方もゆったりとささやくように優しくなった。それだけ抑圧は強かったのだろう。同居していた私の祖母は噂した。 「さあちゃんは」 佐代子のことを皆はそうよんだ。このそよ風が吹きぬけるような呼び名が、表面上の佐代子にはふさわしかった。 「きついことを優しい言葉で言うねんてねえ」 家でも学校でも、奴隷のような位置にいる私にとってはその噂は脅威でしかなかった。それでも佐代子も奴隷かもしれない、そんな思いがかすめた。 雪子には文学趣味があった。通っていた東京の高女では同じ年頃の人からはませてみられていた。できれば学びたいことも山ほどあっただろう。病弱のためかなわず、十九歳で親の言いなりになって結婚した。天国から地獄におちたというその結婚の裏には、親同士決めたという暗い事情があり、幸せではなかったと両親はいう。痴呆になってなお恋する心を失わないでいるのもそのせいかと思う。 雪子は春子を俗っぽいと評した。そこには金持ちで世慣れた彼女に対する妬みも込められていた。 「あんなにさあちゃんに稽古事ばっかりさせて……」 年頃になると見合い話が舞い込んでくるようになった私たちにもはっきりと個性が出てきた。同じ大学で、佐代子は英文科、私は国文科にすすんだ。私は既に世の中に対して捨て鉢なあきらめがあった。いきたくない大学に通わせられているというのが実感で、友達も少ない。まわりは華やかすぎた。貧富の差もあった。佐代子はその中で生きやすそうにみえた。 ある日私は国文科の友達と梅田の町を歩いていた。すると佐代子の一団と巡り会った。佐代子は友達とは懇意らしく、私の方をみず、ずっとしゃべり続ける。不自然なくらい無視する態度は怪訝でもあり、くやしくもあった。そんな中で、中高時代の思い出がよみがえった。 「さあちゃんと私は遠い親戚なんよ」 みんなの前で私がいうと、佐代子は明らかに不快な表情を示したのだ。そのとき私は劣等生だったので、それ以上の説明ははばかられた。佐代子にとって私は貧しく愚かな変人でしかない。親戚であることが迷惑なら黙っていようと思った。 二十五歳であっても嫁き遅れといわれた時代だった。家族でタクシーに乗って三宮に向っていたとき、丁度青谷あたりの歩道で、佐代子が白いワンピースを着て花を抱えているのが目にとまった。眉根に皺を寄せる不機嫌そうな顔である。泣きそうとも、叫びそうともみえた。正子がいった。 「さあちゃんもああやってお稽古してるんやから……」 私にもせよというのだろうと思った。稽古事は結婚前までに幾つかした。身にはいらず、長続きしたのは華道だけだった。やがて二人の姉は嫁ぎ、私も二十七歳で結婚することになった。そのとき、佐代子のウェディングドレスが丁度私の寸法とあうので雪子と二人で実家の御影の家にかりにいった。 佐代子は丁度産後で、男の子を生んだばかりだった。写真でみる夫はがっしりした体格の好感のもてる男で、頼りがいがありそうにみえた。佐代子の顔から般若は薄まった。 私は礼に手作りのクッキーを佐代子に手渡した。透明の丸い容器に入れ、セロテープでぐるぐる巻きにした。そのテープに手間取りながら佐代子は 「たあ坊、これはどうやってとったらいいのでせうか?」 と旧式の言葉遣いでおどけた。佐代子の幸せは傍のものまで伝わり、ウェディングドレスは借り手が多いと聞いた。それが佐代子の家を訪れた最後となった。 あれから三十年。 佐代子の息子は三十歳になった。細々と映画監督の道を目指していると聞いた。娘は幼いうちに私立有名校に入り、羨望の的だった。 「うちは私だけが本読まないの。後は凄い本読みばっかりよ。旦那も娘も息子も。わけわからない本ばっかり読んでるわ」 クラス会で嬉しそうに語っていた佐代子の姿を思い出す。 いくら探しても佐代子の御影の家はない。坂道を下る。蘇州園を抜け、暗みを増した深田池を通る。私の中の家霊が崩れると、御影は光をたたえる美しい住宅街となる。駅前に出た。ウィンドウを眺める。ツイードのスーツが目に入った。こういう服装とは縁遠い暮しになっているなあと思う。下町のワゴンにのったバーゲン品ばかり漁っているこの頃だ。 「たあ坊じゃないの?」 振り向くと叶相子がいた。白いダスターコートを上品に着こなしている。幼い頃のおびえた感じがなくなり、きりっとした顔がきれいだ。 「やっぱりそうね。いやあ、こっちに帰ってたの?」 嬉しそうに微笑んでいる。戸惑った。 「うんうん、まあね」 「時間あるの? その隣でお茶でもどう?」 「そうね」 喫茶店に入る。相子がいった。 「さあちゃんの息子死んだのよ」 その瞬間笑いがこみあげたのは、惑乱だった。 「たあ坊のとこにも葉書いってると思うわ。喪中につきっていうのが」 「……あれがそうだったの? 何かしらと思った」 雪子のマンションのテーブルに置かれた葉書を思い出した。それは春子からのもので、夫がなくなったのはとおの昔であるのにと怪訝に思ったのだ。少しずつ衝撃がひろがる。 「……なんで死んだの?」 「知らない。わからないけど、十一月だったんだって。昨日電話あった。何か事故とかっていってた」 私の中で、若くして身投げした雪子の兄、中川家の伯父の姿が浮かんだ。白痴になった本陣の息子もともに川底におちる鈍く激しい音がする。中川の血をひく者たちのこの音はもう聞きたくないと思った。彼らを死に追いやるものは私にも接近しているようだった。 「啓(けい)君(くん)のことは、母から聞いてた」 私はいった。雪子によると、佐代子の息子啓介は中学のときアメリカ留学を志望し、書類審査にうかったが、父親の反対で断念した。また高校を卒業してからは作家を志望してフランスをめざしたが、それも断念した。大学卒業後は就職を果たし、働きながら映画監督の道を歩んでいた。週末がその活動にあてられた。 啓介の茨の道が想像された。ひそかに頑張ってほしいと願っていた。 「うん、私もさあちゃんから聞いていた」 相子がいった。 「啓君、よく新宿で映画撮ってたんだって」 「そう……」 「『新宿悶絶旅行』とかね、『障害者ロッカー』っていう映画とってたって。インディーズの自主制作みたいなんらしいけど」 インパクトの乏しい題名が相子から告げられる。私は新宿にあるカルチャーセンターで小説作法の講座に通っていた。もしかしたら擦れ違っていたかもしれない。 出逢ったこともない啓介が神戸寄港の終りに、こういう姿であらわれるとは思わなかった。相子はアップルパイを頼んだ。 「胸が痛いね」 私はうそをついた。どこにも悲しさはない。逝くべくして逝ったという感が強い。啓介がくれたものが何かわからない。日のあたらない川が流れる。佐代子に似た目の大きな、なで肩の男の子だったと聞く。 雨が降っていた。私は途中で落したマフラーが気になった。だが席を立てないでいた。薄紅色のマフラーはもう使えなくなっているだろうか。そのことばかりが頭を占めていた。おそらく佐代子の家の近くにある小さな神社に置き忘れたのだろう。
〈「神戸寄航」完〉
平成19年3月22日
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