山形東高バレーボール部の思い出
昭和39年4月に山形県立山形東高等学校に入学後まもなく,バレーボール部に入部させていただきました。
上山市立宮川中学校時代は卓球とかバスケットボールを少しやっただけでしたので,バレーボールに不慣れでバレーボールの技術を修得するのがなかなか難しいというのが印象でした。同期の小池徹さんや他の方々のほとんどは中学校時代からバレーボールをなさってきた方々で,その方々から色々教えていただいて,また,河田利夫監督及び先輩方からも教えていただきバレーボールのアタックとかサーブ・レシーブの練習をしてきました。
ただ,上山市楢下(ちなみに実家は約250年前の宝暦9年に建築した古い建物で現在は楢下宿の中の旧武田家住宅となっています。)から通っていたことから通学時間が片道2時間かかりました。自宅からバス又は自転車で上山駅まで行き,上山駅から汽車(当時は蒸気機関車又はディーゼル機関車)で北山形駅まで行き,北山形駅から徒歩で東高まで通い,帰りはその逆コースという順序だったので練習時間を充分にとることが出来ず練習途中で退場することがほとんどでした。
先輩方の御努力により高校1,2年の時に大分インターハイ全国大会(臼杵市),及び,岐阜国体(高山市)に連れて行っていただきました。
また,諸先輩方には夏の合宿などで大変お世話になりました。特に西田辰男先輩には美味しい寿司を差し入れしていただき大変うれしかったです。
自分たちが高校3年生の昭和41年にインターハイの県予選の決勝戦で鶴岡工業高校に敗れて2位になってしまい,インターハイ全国大会に行くことが出来ませんでした。
そこで,高校3年の6月で引退して後輩に譲る時期であったところ,国体予選までやって国体に行こうということを3年生のみんなで決めて6月で引退せずに練習を続けました。夏休みには合宿をして国体予選に備え,最終的に県の国体予選で優勝する事が出来,高校3年の昭和41年10月に大分国体に出場出来ました。
大分国体では1回戦で敗退しました。
しかし,公休は優勝決定戦まで出場することを予定して取っておりましたので,あちこちの観光地を周り見物しながら山形にゆっくり帰ってきた良い思い出があります。
ただ,帰って来てからが大変で,受験勉強を至急に始めて,かつ,相当の努力をしなければならない状況に直面しました。
他の同期生は昭和41年6月から受験勉強を本格的に始めているのに,昭和41年10月末までバレーボールに打ち込んでいたことから,翌昭和42年3月の大学入学試験のための受験勉強を4ヶ月間で仕上げることが必要となり,睡眠時間を4時間前後に減らして睡魔と闘いながらの勉強が大変であったという思い出があります。
おかげさまで運好くなんとか現役で東北大学経済学部に合格することが出来ました。
その後の人生において東高でバレーボールをやったことが自分の精神的な糧となり,そして色々な面で有益でした。
高校生活でバレーボールをやったことがいい思い出と共に自分の貴重な大切な財産になっていると思います。
以上