創部座談会  (2000年1月22日、新宿・パイラスクラブで)


1950年春、タッチフットボール部創設

時代の変化にたくましく適応した少年たち

敗戦。わが国は物心両面の混乱の中に投げ込まれた。突然、軍国主義に彩られた教科書が墨で真っ黒に塗られ、「鬼畜米英」が自由と富に満ちた理想の国に変わった。価値観の180度転換。しかし、子どもたちはたくましかった。困惑する大人たちをよそに、新しい文化をぐんぐん吸収して時代に即応していった。

敗戦の翌年、1946(昭和21)年春、旧制都立第四中学校に入学した少年たちがいた。彼らは、進駐した米軍が繰り広げるアメリカンフットボールの試合に魅せられた。四中は、学制改革によって都立第四高校と名称変更した後、さらに50(昭和25)年4月、現在の都立戸山高校に変わった。フットボールに取りつかれた少年たちがタッチフットボール部を創設したのは、彼らが第四高校1年生から戸山高校2年生に進級したその年の春だった。以来、半世紀。タッチフットボールは途中でアメリカンフットボールに切り替わり、2000年春、創部50年の記念すべき年を迎えた。

50周年を前にして創部当時のOBが集まり、新しいスポーツに打ち込んだ青春の1ページを長時間、語り尽くしていただいた。                  (敬称略)


出席者 仲野 良一(1951年卒)
    柿沼  寛(1952年卒)
    中島 秀樹(1952年卒)
    西川 郁三(1952年卒)
    広瀬  昭(1952年卒)
    細見  淳(1952年卒)
    松尾 豊太(1952年卒)
    大橋  朗(1953年卒)
    斉藤 昭弘(1953年卒)
    中村 重雄(1954年卒)
    田淵 浩司(1980年卒)
            =監督
司会  須賀  潔(1969年卒)

ナイル・キニックで見た面白いスポーツ

−司会−
 お忙しいところ、お集まりいただきありがとうございます。本日は、"50歳"になるフットボール部の誕生を明らかにするのが座談会の目的です。さて、50年5月の戸山高校新聞に生徒会予算の記事が出ていて「タッチフットボール班3万4000円」と初めて予算がついたことが分かります。部を作ろうという動きはいつごろからあったのですか。
西川
 1年上の戸田寿一という先輩の姉さんが、日系2世の米軍人のフランク・マイク・ミヤキという第5空軍のHBと結婚していた。49年秋の日曜日、戸田氏に勧められ、ナイル・キニック・スタジアム(現国立競技場)に米軍のアメフトをのぞきに行った。アメフトが実に面白くてかっこよく、その後たびたび見に行った。今まで知らなかったコカ・コーラ、ホットドッグに舌なめずりした。
柿沼
 ナイル・キニックには普通、米軍人しか入れなかったんだ。西川とナイル・キニックの塀を乗り越えて、結構試合を見た。

指南役の米軍人は朝鮮戦争で戦死

西川
 平日の夜も、ナイル・キニックのサブグラウンド(現在の聖徳記念絵画館があるところ)でやっていた米軍の練習を見学するほど熱中した。すると、センターをしていたウェッツェルという選手が練習終了後30分くらい、いろいろと教えてくれた。
大橋
 部ができた後の話だが、朝鮮動乱が始まって、ウェッツェルさんが朝鮮半島に出動するというので、礼状を書いて送ったことがあった。しかし、かなり後になって手紙が戻ってきた。あちこち転戦先を回ったようだったが、封筒の表には赤いハンコで「DEAD」。戦死したのだろう。びっくりしたのを覚えている。

先生が作ってくれた改造ボール

西川
 体育の金子英一先生が古い6枚革のバスケットボールをほどいて4枚革のだ円のボールを作ってくれ、それでキャッチボールやキックをして遊んだ。同好会みたいなものが始まったんだ。
仲野
 隣の女子学習院のグラウンドで、早稲田学院のタッチフットが練習していて、よく見に行ったよ。当時は女子学習院との境界は塀ではなく、トゲトゲのあるカラタチの垣根だった。すき間をくぐり抜けることができた。
細見
 ナイル・キニックに通っていたころだろうな、1年C組の教室で授業中、西川が「みんなでやらないか」とメモを回した。同級生だった広瀬、川本(金次郎)、水谷(孝治)、竹井(功)らがその誘いに応じた。

なかなか認めてくれない学校側

西川
 年が明けて50年初め、部の創設を学校にお願いしたが、当時の平田校長が「危険だ」と反対した。仕方がないから、成績がよくて信用のある細見を代表に立てた。1年C組を中心に11人は集めたよ。
細見
 「このままでは認められないから」と西川に頼まれた。保守的な先生が多かったが、金子先生だけは応援してくれた。伊原先生は50年10月、金子先生が転勤した後、戸山に着任した。
−司会−
 そうして50年4月、部として認めてもらい、予算がついたというわけですね。
細見
 それでユニホーム買ったんだ。上だけ。

焼け跡のフットボール

−司会−
 創部間もない50年5月10日夜、火事で戸山の校舎が全焼、しばらく近くの小学校など4校を借りて分散授業となりました。最終的にはそれが翌春まで続いたのですが、練習はどうしていたのですか。
細見
 やってたよ。校舎がなくても焼け跡の戸山のグラウンドに行った。来ないやつもいたけど、結構集まっていた。
西川
 火事の直後、焼け跡の一角に焼け残りの廃材を使って、部室みたいなものを作った。部の看板をかけようと、暗くなって某学校の正門の木製看板を失敬して、細見の家で字を書き換えようとしたが、細見の親父に見つかり、えらく怒られて夜中に返しに行った。
−司会−
 大橋さんは創部の春に入学したのですが、発足したタッチフット部の勧誘はどうでしたか。
大橋
 私は千葉の市川に住んでいて、勉強するため、わざわざ代々木に寄留したことにして戸山に入った。体が大きかったから目をつけられたのだろうな。遠藤さん、牛山さん、細見さんらから、校舎の階段横に呼ばれ「タッチフットに入れ」。断ればぶっとばされそうな感じだった。まあ、面白そうだから入った。でも、フットボールは全く知らず、最初はただぶつかるだけだった。
細見
 やらせたらへたでねえ。内股なんだよ、内股。
大橋
 亡くなった吉田(瑞雄、52年卒)さんがやさしくてね。四谷第三小学校で分散授業を受け、放課後30〜40分歩いて戸山に行き、暗くなるまで練習。終わると、荻窪まで帰る吉田さんと歩いて中央線の大久保駅に行ったのだけど、よくなぐさめられた。私は山手線の新大久保駅でいいのにねえ。だから市川の家に着くのは、夜8時か9時。

練習終了後は校門前の「とらや」に

細見
 私の家は近かったけれど、練習が終わると、学校の向かいにあったラーメン屋の「とらや」に行ってたな。自宅にいるより、とらやにいる時間の方が長かった。
−司会−
 大橋さんの同期の方は、同じように4月に入ったのですか。
大橋
 殿岡、古田など3、4人かな。
斉藤
 私は2年から。入学してすぐ火事になって、運動部もなにも分からないまま1年が過ぎたんだ。まあフットボールのことはおぼろげに知っていて、誘われた時、「バックスなら入る」と注文をつけた。
中村
 1年下の私はその時戸山に入学したが、中学生の時から進駐軍のアメフトの試合を見ていたから、すぐ入部を申し込んだ。でも、私みたいなのは少数派だな。

古いマットを丸めてダミーに

−司会−
 防具はどうしたのですか。ヘルメットはなしとしても、ショルダーもヒップパッドも全くつけなかったと聞いていますが。
西川
 そう、防具ゼロ。
中島
 ひざにだけ、帯しん、雑巾といったパッドを入れたよ。竹井がやはり雑巾を肩パッドにしてショルダー替わりにしていた。
−司会−
 練習用具はどうでしたか。
西川
 人間ダミー。
細見
 でも、金子先生が体育の古いマットを丸めたものを作ってくれ、それに当たっていた。

貴重品のボールは3個

西川
 ボールには苦労した。51年に使ったスポルディング社製の古いボールを今でも持っている。
中島
 神田の古道具屋でぶら下がっている米軍払い下げを買ってきた。だいたいフットボール用品なんて、どこも作っていない。新しいボールは金があっても買えない時代だった。
細見
 ボールは三つしかなかった。学校が火事になったが、近所に住んでいた牛山(正明、52年卒)と2人で、延焼寸前の体育教官室から取り出すことができ、ほっとした覚えがある。
西川
 スパイクも神田で買ったが、米軍払い下げなので、大き過ぎた。履くとミッキーマウスの靴みたいに見えるので、靴屋に行って縮めてもらおうとしたが、底に鉄板が入っていて「直せない」と言われた。サッカーやラグビーのスパイクはあったが、ほとんどはズックの運動靴だった。
中島
 蒲田のバッタ屋に、払い下げのフットボールパンツ、ショルダーがつり下げて売られていた。そこでスパイクを買って底の鉄板を靴屋にカットしてもらった。細見がキッカーもやっていたので、右の方だけ貸した。私は左のエンドだから、左足だけスパイク。
柿沼
 フットボールパンツはなかったけど、野球のパンツで代用できたので改造した。竹井は前をひもで締めるように、本物らしく格好つけていた。

英語の本を翻訳してフットボール研究

−司会−
 指導者はどうしたのですか。
細見
 最初は50年の夏、立教の斉藤さんという選手に教えてもらった。戸山のそばにある戸塚一中の校庭で練習していた。QB西川のプレーは、プレーごとにフォーメーションが違った。プレーの都合に合わせてバックスの配置を決めていた。すると、斉藤さんが「基本はないのか」と言われ、初めてフォーメーションというものが分かった。随分恥ずかしかったな。
大橋
 細見さんに命令されて、神宮外苑の図書館で米国のルールブックを借りて、翻訳した。いきなり「スクリメージライン」と言われても、チンプンカンプン。英語なんかろくに分からないので、英語の得意な沖野(行男、52年卒)さんと一緒になってやった。沖野さんはほとんど練習に来なくて、米国人と話す時の通訳であり、試合の時に応援する、今で言うサポーターかな。
松尾
 そうなんだ。そのころ、サポーターがたくさんいて、私もその1人だった。52年卒はOB名簿に21人も載っているけど、かなりの数がサポーターではなかったかな。
西川
 細見の姉さんが米国に留学した。その姉さんに「How to play Football」という本を送ってもらった。それを沖野に翻訳させて勉強した。
斎藤
 その本、今でも私が持ってますよ。
−司会−
 正式なコーチは法政の主将も務めた尾上博久さんが最初でしたね。
西川
 50年の12月ごろ、細見と2人で高田馬場駅の向こうに住んでいた尾上さんを訪ね、お願いした。尾上さんに白羽の矢が立ったのは、尾上さんの兄が法政二高の教師で、伊原先生が紹介してくれたからだろう。尾上さんはわれわれが「連盟に聞いたと答えた」と言っているが、それは記憶にない。尾上さんは法政の主将を務めながら、練習の合間によく来てくれた。52年春に卒業するまでコーチをしてくれた。

新宿高に負けて丸坊主

−司会−
 初試合はいつでしょうか。
仲野
 1年上の私は部ができて練習にはほとんど出なかった。初めての対外試合は正確な日時を覚えていないが、50年秋に東伏見の早大グラウンドで早稲田学院と、戸山のグラウンドで聖学院と練習試合をした記憶がある。聖学院の試合で手を骨折、細見君の親父さんに治療してもらった。だから早稲田学院戦が先だったと思う。早稲田学院戦で、私だけマイクからもらった第5航空隊のユニホームを着て写した写真が残っている。
細見
 50年暮れ、新宿高校と対戦して負け、丸坊主になった。年が明けて51年2月、北園と試合をして勝ったのが初勝利。まともに勝って、すごく嬉しかったのを覚えている。

アメフトをやりたい

−司会−
 創部メンバーが3年生になった51年のシーズンは、大変いい成績でしたが、こちらの詳しい話は各代の「思い出の3年間」に任せます。ただ正式な公式戦とは別に、51年12月、法政大学の1、2年生と防具をつけてアメリカンフットボールの試合をしていますね。
西川
 私たちが尾上さんにお願いした。尾上さんは、けがでもしたら大変と渋っていたが、最後は1、2年の新人相手なら、と承諾してくれた。伊原先生も辞表を懐に覚悟を決めてくれた。場所は女子学習院のグラウンド。学校に一応、届けたと思うよ。
大橋
 試合を前に、武蔵小杉の法政グラウンドに練習に行ったら、部室に練習中に亡くなった神谷さんの遺影が飾ってあって「危ないところに来たなあ」と心配になった。
細見
 それは防具を借りに行った時のことじゃないか。古いものばかりで、"ジンギスカン"と呼ばれていた革製の真四角なヘルメットがあった。当たると、すごく痛かった。

OBになっても相変わらず戸山へ

−司会−
 52年春、実力もあった創部メンバーが大量卒業して、いかがでしたか。
中村
 新3年が7人、新2年が9人いたから、試合はできた。
大橋
 いや、私たち3年は7人いたからといって、みんながみんな来るわけではなかった。
斉藤
 試合があるから出てくれ、と頼んだことがあった。
大橋
 細見さんは卒業したのに、しょっちゅう来ていましたね。
細見
 浪人中、戸山で予備校と言うべき卒業生講習があったからな。在校生の時と変わらないまま戸山に行っていたから、コーチみたいなことになった。
西川
 私も法政の練習の合間に、よく行ったよ。
斉藤
 西川さんはよくガールフレンドを連れて来たから、みんなのあこがれだった。
大橋
 確かに、細見さんたちの後、だんだん部員が少なくなって大変になった。50年代前半というのは、政治的に左右が激しく対立し、戸山でも流血事件があったりデモに行って殴られたり、政治への関心が高まって文系サークルの活動が活発になった。そちらの方面に人が吸い取られ、体育会系に人が集まらなくなった。
西川
 細見と2人で61年ごろまではよく戸山に足を運んでいた。平日は午後5時までしか練習できなかったけれど、その代わり土、日曜日も 練習させた。学校には警備員もいたが、全然気にしなかった。20歳代後半になり、仕事も忙しくなってコーチから退いた。
−司会−
 みなさんがフットボールに彩られた高校時代を送ったことは、本日の話でよく分かりました。高校時代を振り返る時、こうした宝物のような日々があったことは大変貴重ではないでしょうか。今、戸山でアメフトに打ち込んでいる後輩たちも、きっといつか同じように過ぎ去りし日々を懐かしく思うことを祈って、座談会を終わらせていただきます。

金子英一先生の話

新しいスポーツをやらせたかった

 1947年4月から50年9月末まで戸山に勤務し、東京工業大学に転勤した。伊原先生とは入れ替わりでした。米軍が来て、アメリカンフットボールというスポーツが注目されるようになった。生徒たちに、この新しいスポーツをやらせたいな、と思って、倉庫に転がっていた古いバスケットボールを自分で縫い合わせてアメリカンフットボールのボールめいたものを作りました。珍しがりで、時代の先端を行くスポーツに興味があったんでしょうね。ルールが全く分からないので、原書を読みました。タッチフット部を作った生徒たちはみんな元気でした。今でもよく覚えています。創部にあたって、学校側が反対したって?そんな覚えはないですね。  (2000年1月26日、談)