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 年頭を祝う多度津の雑煮は変わっていた。「白味噌仕立てのあんこ餅に青のりをふりかけ、黒赤漆塗りの家紋入り椀で食べた」と話すと、何処へ行っても驚かれるより、あきれられることの方が多い。今でも正月には、母親の作り方を真似て昔に近いものを賞味するが、周りのものは誰一人箸をつけようとはしない。”今も美味い!” 食生活の習慣には、三つ子の魂みたいなものがあるのかも知れない。
 
 あのころの故郷の食べ物を思い出してみた。雑煮程特異なものはないが、その多くは素朴で懐かしく、郷関を出てから二度と味わえなかったようなものである。
 
 さぬきうどんは、まだまだ、全国的スターではなかったが、既に、町内には数軒のうどん屋があった。どの店へ入っても、今の東京のものより間違いなく上等だったが、特に高見屋をひいきにしていた。きつねとかやくが5銭、しっぽく10銭、他に鍋焼だけというメニューだったが、あの程よいだし汁の味は「焼穴子」と薄焼き卵、二切れのかまぼこ、香りと色合を添えた新葱に調和し、朝打たれた許りの真白いうどんを「絶品のカヤクウドン」に仕上げていた。「宇塗ん」と云う字を覚えたのも、あの店の看板からである。その後、金比羅橋のたもとに上海軒が開店し、支那そばを始めると、忽ち町中がお得意様になる程好評を博した。先日、東京から帰郷した友人から、「上海軒へ行った。今も昔の通りの味だった。」と聞かされ、唾を飲み込みながら羨ましく思った。
 
 夏の風物詩は、わらび餅と型押し氷とアイスクリンだった。皆、自転車や屋台で売りに来たが、海水浴場のあめ湯以外我が家では許されなかったので、仲間達がうまそうに食べるのを難民の気持ちで眺めるしかなかった。間もなく、衛生的?アイスキャンデーが店頭売りされるようになり、私もやっと仲間入りできたが、なんといっても、少し高い「あづき」が一番だった。

 通学の途中、朝な夕な大正堂の菓子ケースをのぞいていた。黒塗りで中が赤い長方形の木箱が表から見え易いように奥の方を高くして、斜めに並べられ、蝶番で開くようになった枠つきのガラスぶたがついていた。いつも数種類のものが並べられていたが、特に、薄皮饅頭と柏餅がよく売れていた。老夫婦秘伝のあんこは稍薄色で、如何にも大正堂の味だった。饅頭は、常時、白と赤と緑の三色あり、裏に「キョウ木」が四角に切って貼ってあった。

 菓子では、南町の柴田の駄菓子が忘れられない。特に、油菓子と呼ばれていたものをよく食べたが、今では、消え去ってしまった。菓子とは云えないが、今になって聞いても、仲間の総てが美味かったという遠藤の「肩(固?)パン」がある。辯当代わりに買う者が多かったが、焼き立てで暖かかったことによるのだろう。

 琴参電車の駅の二階食堂で洋食を食べさすようになった。チキンライス・ハヤシライス・カレーライスとソーダ水とミルクセーキがあった。つくづくハイカラになったなあと思ったものだった。 

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