・改宗談(1981−1986年)
1981年、私が16歳のとき、
ローマカトリックの教皇、ヨハネ・パウロ2世が来日しました。
ローマカトリックの教皇が日本に来るのは初めてだったので、
マスコミでは大きく取り上げられました。
これがきっかけで、私はキリスト教に興味を持ち、聖書を買って、
読みはじめました。
しばらくたったあるとき、聖書の他にも聖書のような本があると、うわさに聞きました。
しかし、その本の題名は分かりませんでした。
いろいろな本屋や図書館を探しめぐりましたが見つかりませんでした。
キリスト教のコーナーにあるのは、キリスト教や聖書について、解説した本だけで、
古代の預言者が書き記したような本は聖書以外にはありませんでした。
ある日、古本屋に行ったところ、「モルモン経」という本を見つけました。
「経」は「お経」の「経」の字だったので、仏教の経典かと思いました。
当時は「モルモン書」というタイトルではなかったのです。
中を見てみるとキリストのことが書いてあり、古代の預言者が書いたものだったので、
私が探していたのは、この本だと思いました。
しかし、そのときは、お金がなかったので、買えませんでした。
その日は土曜日だったので、月曜日に貯金を下ろして買いに戻ることにしました。
それまでに他の人に買われないように、その本を横にして、他の本の後ろに隠しました。
月曜日は学校があったので、学校が終わると、すぐに郵便局に行って貯金を下しました。
わくわくしながら、自転車に乗って買いに行く途中、交差点で信号待ちをしていると、
2人のアメリカ人の青年に声をかけられました。
彼らはモルモン教会の宣教師だと名乗りました。すこし話をしても良いかと言うので、
買おうとしていた本と関係がある人たちだと思い、彼らの話を聞くことにしました。
そして、彼らから新品のモルモン経を手に入れることができました。
そのときは、新しいのが手に入って、運が良かった程度の思いでしたが、
後で、神様のお導きがあったのだと分かりました。
古本屋で他の本の後ろに隠した例の本は、後日もとに戻して置きましたので、
ご安心ください。
このように、私は16歳のときに、この教会に出会いましたが、
両親の反対があり、20歳までバプテスマを受けられませんでした。
しかし、その間、教会に通うことは許されていました。
教会に通う中で、私の先祖の救いは子孫の中で唯一この教会に導かれた私にかかってい
ると分かりましたので、まだ教会員ではないですが、先祖の救いに係わることにしました。
先祖について調べ、系図と家族の記録を作り、神殿に提出しました。
戸籍で調べられる範囲はやりつくしたので、他に記録を持っている親戚はいないか、
両親に尋ねました。
両親は私の作った系図を見てよろこんでくれました。
そして、両親は私の作った系図のコピーを親戚に送ってくれて、
これ以上の情報はないか、尋ねてくれました。
結果はそれ以上の情報を持つ親戚はいませんでした。
しかし、私の作った系図は親戚の間で好評を得ました。
父は、私の手書きの系図をワープロで清書してくれて、親戚中に配っていました。
そんなこともあってか、私が20歳になるころには、両親は心を和らげてくれて、
しぶしぶながらも、教会に入ることを認めてくれました。
20歳でバプテスマを受けました。16歳から4年間は聖霊の賜物については
知識として知っているだけで、経験して知ってはいませんでした。
バプテスマを受けた日の夜、お祈りをしていると、全身が火で包まれたように
熱くなりました。しかし、苦痛ではなく、むしろ、幸せな気持ちになりました。
このようなことは初めてで驚きましたが、聖霊の賜物を経験することができました。
・教会員宅への訪問(1990年頃)
私はある教会員の家族の家を訪問しようとしていますた。初めての訪問だったので、
住所と地図を書いた紙をもらっていました。しかし、最寄の駅で降りたあと、住所
と地図を書いた紙を家に置き忘れてきたのに気が付きました。家に取りに戻ってい
ては、約束の時間に間に合いません。相手の電話番号もわからないので、電話を
かけることもできない。どうにもならない状態になったので、その家族の家に
導いてくれるよう、神様にお願いしました。歩き始めると、ある方向に行くべきと
いう思いが心に湧き、そちらに向いました。曲がり角では、行くべき方向が分かり
ました。それを繰り返しているうちに、目的の家にたどり着くことができました。
私は神様の導きに感謝しました。
・妻のつわり(1996年)
わたしと妻が結婚して間もないときのことでした。妻は今の娘を妊娠しました
が、つわりがひどくなりました。家の中ではどうにか動けるのですが、外に出
て歩くことはとても難しい状態になったのです。わたしは仕事があるので、い
つもついていることができません。そこで、もっとひどくなる前に妻の実家に
里帰りさせることになりました。しかし、東京の三鷹市から青森の八戸市まで
は新幹線と在来線で6時間以上もかかります。この長旅を妻は絶えられるのだ
ろうか心配しました。そこで、わたしは神権の力を使って、病人の癒しの儀式
を妻に施しました。そして、旅行の朝は、昨日までとは違ってとても元気にな
ったのです。新幹線の中でも、おせんべいをボリボリ食べるし、チョコも食べ
るし、とても前日まで何ものどを通らなかった人とは思えませんでした。問題
もなく、妻の実家に着いたのです。わたしや妻や実家の両親は、つわりが無く
なったのなら、実家に帰る意味はなくなったねと喜んでいたのです。しかし、
それは違いました。翌日、またつわりが復活しました。そして、1週間後には
脱水症状がひどくなり、とうとう病院に入院をしてしまったのです。
旅に耐えられるように、神様からの助けがあったと思います。
・東日本大震災(2011年)
東日本大震災の前日に、啓示を受けました。大きな地震が来るので備えるようにと。
その日は木曜日の夜だったので、土曜日に防災用品などを買いに行こうと思って
いました。しかし、翌日の金曜日に大地震は起こってしまったのです。土曜日には、
防災用具を買うどころか、どの店も店内の片づけで臨時休業していました。
結局、たいした備えはできませんでした。
危機を知らせる聖霊の声は、不安や恐怖をあおる大きな声ではなく、
平安と温かさのある、ささやきでした。今後のための教訓になりました。
・苦難の連続(2018年)
2018年は、たて続けに困難な状況が押し寄せてきました。
困難なことが起きると、なぜか、タイミングよく、適切な助けがあり、
困難を乗り越えることができました。
神様が助けてくれているとしか思えなくなり、神様の愛を感じました。
具体的にどんな困難と助けがあったかというと
・まず、1つ目は、家族と私に病気や怪我が続きました。
・母は3月に心臓の手術、4月に肺がんの手術を受けました。
・弟は下血をし、6月と11月に、2回、入院しました。
・妻は4月に肋骨を骨折し、12月に足を骨折しました。
・私は2月に右目が硝子体剥離をおこしました。
10月に大腸の腫瘍が見つかりました。
11月にぎっくり腰になって、1か月間も痛みに苦しみました。
しかし、どれも、早期に見つかって、簡単な手術ですんだり、
適切な治療が功を奏して、今では、順調に回復しています。
・2つ目は、家の貯金が底を着きました。
しかし、その後すぐ、会社からボーナスが出て助かりました。
ボーナスが出るのは5年ぶりのことだったです。
・3つ目は、会社の事務所の鍵が壊れて、事務所に入れなくなりました。
壊れた鍵を交換するにも、事務所の中からしか交換できません。
ビルの管理会社に連絡しようとしても、連絡先は事務所の中にあるので、
連絡先がわかりません。助けを求めて神様に祈ったところ、
奇跡的に鍵があいて、事務所に入ることができました。
そして、管理会社に連絡して、壊れた鍵を交換してもらえました。
・病気のこと(2023年)
2023年10月に、病気をして、長らく教会を休んでおりました。
腎臓の出口に大きな石ができまして、出口をふさぐので、
作られた尿が排出できなくて、腎臓が通常の2倍程度に腫れていました。
この石は自然に排出できないほど大きかったので手術して取り除く
必要がありました。
そのため入院し、手術し、その後の療養のため、
3か月ほど教会をお休みしていました。
今は、何の問題もなく、回復することができました。
この間、痛みなどがあり、苦しい思いをしました。
しかし、絶望感や憤りの気持ちを持つことなく、穏やかに過ごせました。
私たちには聖霊の賜物が与えられていて、どのような状態にあっても、
神様からの愛を感じることができます。
また、神様からの助け、導き、慰め、癒しをいただくことができます。
このことに感謝しています。
苦しみの中でも、幸福感を得ることができました。
心楽しく忍耐することができました。(モーサヤ24:15)
腎臓が2つあることに感謝しました。
もし、1つだったら、すでに死んでいたでしょう。
医療技術が発達した時代に生まれたことに感謝しました。
そうでなければ、50歳までに死んでいたことでしょう。
江戸時代までの平均寿命が50歳だということに納得できます。
手術、療養期間中は東京に戻っていました。
その間、家族と過ごせたことに感謝しました。
私は2、3年ごとに手術を受けなければならない病気を繰り返しています。
尿路結石で3回、大腸の腫瘍で2回、前立腺の腫瘍で1回です。
よく病気になる弱いからだをいただいたことに感謝しています。
そのたびに、神様を思い起こし、身近に感じることができるからです。
・沖縄での話(2023−2024年)
私が沖縄で経験した最も印象的なことは、沖縄神殿に関することでした。
建設発表、鍬入れ式、建設、オープンハウス、奉献式、儀式の開始の流れを
間近で見てきました。
沖縄の教会員にとって、沖縄の地に神殿が建つのは長年の夢でした。
しかし、沖縄には既に近くに福岡と台湾に神殿がありましたので、
沖縄に神殿が建つのは、遠い将来のように思えました。
なので、2019年の神殿建設の発表は、奇跡のように思われたのです。
沖縄県1県のために神殿ができることは、ありえないことでした。
1つの伝道部に2つの神殿(福岡と沖縄)があるのはまれなことです。
全世界で見ると約12ステーク・地方部で1つの神殿の割合です。
日本は恵まれていて、約6ステーク・地方部で1つの神殿の割合です。
さらに沖縄では2ステーク・地方部で1つの神殿の割合です。
これは沖縄の教会員の努力の賜物だと思います。
沖縄の教会員は先祖を大切にするという土地柄もあり、家族歴史活動に熱心なかたが
多いです。教会員でなくても多くの家庭で先祖の系図が作られていると聞きます。
その例として、リアホナ2023年3月号のローカルページを見てください。
ここで紹介されている姉妹は、親戚に保管されていた系図から約3300人を
拾い上げることができたといっています。
また、琉球の王族につながっていることも分かったので、王族の記録も調べて、
神殿に提出する予定だそうです。
他にも、沖縄の教会員から似たような話を多く聞きました。
私はオープンハウスと奉献式の実行委員会に参加することができました。
私はテクノロジーのサブ委員会にいました。
オープンハウスで使う、教会紹介ビデオを流すモニターの設置や、
ボランティア人員の予約システム、訪問者の予約システムを担当しました。
オープンハウス当日は訪問者を案内する係もしました。
私の担当ではありませんでしたが、広報のサブ委員会は、
オープンハウスの1週間前には新聞に大きな紙面公告を載せました。
また、ラジオ局主催の福祉活動にも参加していたので、ラジオでも告知できました。
そのかいあって、オープンハウスには多くの人々が訪れてくれました。
オープンハウスは2週間にわたって行われましたが、どの日も、
午前9時から夜の8時まで、訪問者が途絶えることはありませんでした。
合計の訪問者数は約7800人でした。1日平均では約600人です。
教会員以外の人も多くいました。長年、教会に来ていない教会員もいました。
これをきっかけとして、宣教師からレッスンを受け始めた人、
再び教会に来るようになった人もいると聞きます。
沖縄神殿のオープンハウスは良い伝道の機会、再活発化の機会になりました。
奉献式が行われた後は、すぐに運用が開始されました。
私も何度か神殿の儀式に参加することができました。
世界で3番目に小さい神殿と言われていますが、役割は十分果たせていました。
沖縄神殿の建設が発表されたあと、沖縄ステークでは、教会員に、
先祖の記録を調べて、ファミリーサーチに入力しましょうと、提案がありました。
私は、直系の先祖については、戸籍から得られる分はすでに儀式を済ませていたので、
傍系の家族について、記録を提出することにしました。
傍系とは直系の先祖の子孫のことで、たとえば、おじ、おば、いとこなどです。
すでに手に入れていた戸籍から、傍系の親戚の名前などを拾い、
268人の名前をファミリーサーチに記録することができました。
8歳未満の子供を除けば、バプテスマの対象は168人いました。
思ったより多い人数になりました。一回の神殿参入では5人までですので、
何年もかけて、少しずつ儀式をやっていこうと思ってました。
このことを、神殿のオープンハウスのときに一緒に奉仕をしていたある兄弟に雑談を
する中で話しました。その兄弟は私の知らないうちにワードの神殿・家族歴史主任の
兄弟にその話を伝えてくれていました。
その兄弟は、私が近々東京に戻ることを知っていたので、
東京に戻る前に、168人のバプテスマを済ませてしまいましょうということで、
ワードの兄弟姉妹たちを集めて、バプテスマの団体参入をしてくれることになりました。
特別なワードの団体参入は3月9日に行われました。16人の方々が参加してくださり、
168人のバプテスマを終えることができました。
このわずかな期間にこの数を達成できたことを奇跡だと思いました。
・大阪神殿(2023−2024年)
沖縄神殿の奉献式を待たずに、2023年10月に大阪神殿の発表がありました。
そして、2024年3月に、その建設地が大阪府枚方市であるとの発表がありました。
枚方は私の実家があるところで、今も母と弟が住んでいます。
私は、枚方ワードでバプテスマを受けました。
神殿の建設地は、亡くなった父が埋葬されている霊園から歩いて行ける場所にあります。
父の墓参りをした帰りに、神殿に寄ることができます。
偶然とは言えないような縁を感じます。
大阪神殿の建設地は元、大阪国際大学のキャンパスがあったところです。
大学の建物は今も取り壊されずに残っています。講堂、運動場、食堂の施設があるので、
ここで大きな集会や青少年・独身成人の合宿ができそうです。
2024年5月には、ブリガムヤング大学の学長が大阪に来ていたので、
もしかしたら、大学の日本校が神殿の敷地に併設されるかもしれません。
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