右目が見えなくなり、右腎臓が機能しなくなった。
でも、2つあるので、1つがだめになっても、生きていける。
2つ与えてくれたことを神様に感謝した。
飛行機のジェット・エンジンも2つあるので、
1つだめになっても飛び続けられる。
救いは個人、昇栄は家族の問題だと言われている。
私はこれを、家族全員が神に従った生活をしないと昇栄できないの
だと勘違いしていた。そうでなく、家族のだれかが神に従っていた
ら、昇栄への道が断たれることはないということだった。私の妻や
子供は教会に行かなくなったが、これを知って心が軽くなった。
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。
あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった
者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そ
うすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしの
くびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
(マタイ11:28-30)
キリストのくびきを負うとは、キリストが一緒に負ってくださると
いうことである。自分が力不足でも、キリストが助けてくれる。
十二使徒のベドナ―長老は次のように話している。
「くびきとは、通常2頭の牛などの動物が一緒に荷を引けるように
するための横木です。くびきをつけられた動物は横に並ぶので、作
業を達成するために一緒に動くことができるのです。
神聖な聖約を交わして守ることで、わたしたちは主とくびきでつな
がり、結ばれます。つまり、わたしたちは人生の旅において、主を
信頼し、主に頼り、主とともに荷を引くということです。わたした
ちがどんなに努力しても、主の力とは比較になりません。しかし、
救い主とくびきでつながるなら、わたしたちは主の贖いが持つ清め
の力と、人に能力を授ける力と、さらなる力を生活の中で受けるこ
とができます。」
中央扶助協会の岡崎智恵子姉妹も同じような話をしている。
「いかにして、荷は軽くあり得るのでしょう。それは、くびきが二
人で引くようになっているからです。イエスは、くびきを引く相棒
になることを望んでおられます。それでも、私たちは独りで荷を引
くことを主張し、それがなぜ傾いているのか理解せずに、苦闘する
ことが何度あるのでしょうか。主はその荷を負うことを望まれ、私
たちはそうしてもらう必要があるのです。」
「足跡」
ある晩、私は夢を見た。
主と共に浜辺を歩いている夢だった。
空の向こうに私の人生の風景が映し出されていた。
それぞれの風景で、砂上の2組の足跡に気づいた。
一組は私のもので、もう一組は主のものだった。
人生の最後の風景が映し出された時、
振り返って砂の上の足跡を見た。
度々、人生に沿った足跡が一組しかないことに気づいた。
それは、私の人生の中でとても辛く悲しい時だった。
そこで私は主にその事を尋ねた。
「主よ。あなたは私があなたに従うと決めた時、
一緒に歩んで下さるとおっしゃいました。
しかし、私の最も辛く苦しい時、足跡は一組しかありませんでした。
私があなたを最も必要としていた時、
何故あなたは私から離れたのですか?」
主は答えました。「私の愛する子よ。私はあなたを愛していて、
決してあなたの元を離れたことはありません。
その辛く苦しい時、私があなたを背負ったのです。
あなたが見た足跡は私のものです。」
自分には欠陥が多くある。しかし、欠陥が多いほうが、神様がそこ
を埋めてくださり、自分の中に神様成分が増えるので良い。
骨折すると骨折した部分は前より強くなるように、
霊的な骨折は、神様成分で補強され、前より強くなる。
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