赤田首里殿内

日曜学校で、沖縄のわらべ歌「赤田首里殿内(あかたすんどぅんち)」は、
福千年を歌ったものではないかという話が出たので調べてみた。

「弥勒(みるく)」がキリストを表し、
「弥勒世果報(みるくゆがふ)」が福千年を表しているという。

以下、その歌詞を掲載する。()は読み、「」は意味。

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一.
赤田首里殿内   (あかたすんどぅんち)   「首里赤田村の首里殿内に」
黄金灯籠提ぎてぃ (くがにどぅーるーさぎてぃ)「黄金に輝く灯籠を提げて」
うりが灯がりば  (うりがあかがりば)    「それが明るく灯ったらば」
弥勒御迎     (みるくうんけー)     「弥勒菩薩をお迎えしよう」
しーやーぷー しーやーぷー
みーみんめー みーみんめー
ひーじんとー ひーじんとー
いーゆぬみー いーゆぬみー

二.
東明がりば    (あがりあかがりば)    「日が昇ったら」
墨習が行ちゅん  (しみなれーがいちゅん)  「学校に参ります」
頭結てぃ給り   (かしらゆてぃたぼり)   「髪を結って下さいませ」
我親加那志    (わうやがなし)      「私の親御様」
しーやーぷー しーやーぷー
みーみんめー みーみんめー
ひーじんとー ひーじんとー
いーゆぬみー いーゆぬみー

三.
だいくくぬ弥勒  (だいくくぬみるく)    「だいこくの弥勒」
我が島に往もち  (わがしまにいもち)    「私の島にもおいで下さい」
御拡きぼせみそーり(うかきぶせみそーり)   「そして広めて下さい」
弥勒世果報    (みるくゆがふ)      「弥勒の太平の世「ゆがふ」を」
しーやーぷー しーやーぷー
みーみんめー みーみんめー
ひーじんとー ひーじんとー
いーゆぬみー いーゆぬみー

四.
道々ぬ巷     (みちみちぬちまた)    「道々のそこかしこ」
唄歌てぃ遊ぶ   (うたうたてぃあしぶ)   「みんなが唄を口ずさむ―平和な世の中」
弥勒世ぬ世果報  (みるくゆぬゆがふ)    「弥勒の「ゆがふ」が」
近くなたさ    (ちかくなたさ)      「近くなったようだよ」
しーやーぷー しーやーぷー
みーみんめー みーみんめー
ひーじんとー ひーじんとー
いーゆぬみー いーゆぬみー

しーやーぷー:ほっぺた
    頬を膨らませて首を振りながら両手を体の脇わき前で動かしたり、お腹をさすったり
    (※弥勒菩薩の容姿の表現と考えられる。)
みーみんめー:耳
    両手で耳を軽く引っ張って、左右に振る。
    (※福耳にあやかって長寿を願う。)
ひーじんとー:ひじ
    体の前で肘を曲げ、左右交互に肘で掌を突ついたり、さすったりする。
    (※精気。生気。命の勢気を表現する。)
いーゆぬみー:手のひら
    幼児が左の手のひらに右の指を指して頂戴とねだる格好かっこう。
    本来は、両方の掌てのひらを重ね合わせて、物を戴いただく格好をする。
    (※弥勒菩薩から、福や徳を戴く、あるいは、授かる事の歓びを表現する。)

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普通は、キリスト教ではなく、仏教が元になっている歌だと思う。
日曜学校では、モルモン書のイザヤ書から引用した部分の説明をしていた時に、
キリストと福千年を歌ったものだという話が出た。
歌の最中に、体の部分を触る動きをするのだが、イザヤの言葉の次の部分に関連する。
2ニーファイ7:6「ひげを抜く者にわたしの頬を任せた」
2ニーファイ7:5「主なる神は、わたしの耳を開かれた」
1ニーファイ21:22「彼らはあなたの息子を腕にいだき」
1ニーファイ21:16「わたしはあなたを、わたしの手のひらに彫り刻んだ。」
上記の歌の「いーゆぬみー」は手のひらを指すと同時に、「魚の目」とも取れるという。
魚の形(イクトゥス)は初期のキリスト教のシンボルだったらしい。
そこで、キリストに結び付つけられるというのである。

ちなみに、弥勒菩薩(みろくぼさつ)は、釈迦の次に現われる未来仏。
弥勒は音写であり、「慈しみ」を語源とする。
釈迦入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ、多くの人々を救済するとされる。
他の経典、華厳経では3000年後としている。(釈迦の没年は紀元前500年前後)
福千年の時期と重なると考えると、キリストのことを言っているのかもしれない。
日本では七福神の一人として知られる布袋は、中国では、弥勒の化身とされる。
沖縄県では、「ミルク神」、「ミルクさん」と呼び、弥勒信仰が盛んである。
祭りでは、笑顔のミルク仮面をつけたミルク神が歩き回る。
弥勒菩薩の化身とされた布袋との関係が指摘されている。
ヘブライ語の「メシア」が、インドでは「マイトレィア」、
中国では「ミレフ」、日本では「ミロク」となったとする説もある。

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